希釈犬

犬が増えていく。
「あれはなんですか」
私が尋ねると男はこともなげに答える。
「ああ、あれは希釈犬ですよ」
「希釈犬?」
「ええ。ご存知ないですか?希釈犬は、ああして薄めて増やすのですよ」
「は、はあ」
そんなやりとりの間にも、犬は1匹、また1匹と増えていく。
「何を希釈しているのですか」
「あれですよ」
男が指差した先には、3階建てのビルほどもある大きな犬が座っていた。
「あの犬を、我々はオリジナルと呼んでいます。オリジナルの原液を薄めて、あんなふうにいくつもの希釈犬を作るのですよ」
「それはつまり、クローンのようなものですか」
「ほとんど正解ですが、少し違いますね。希釈犬ですから。ほら、あの犬を見てください」
彼は並んだ犬たちの中で、いっとう小さい犬を指さして言った。両掌に収まるくらい小さい。
「あれが1番濃い希釈犬です」
「はあ」
「お酒みたいなものですから。水割りよりロックの方が濃いでしょう?それとおんなじように、あの子が1番濃い個体です。濃い個体が1番元気で、1番オリジナルに近いのです」
「はあ」
男は説明できるのが誇らしいのか嬉しいのか、ペラペラと話を続ける。
「希釈できる量は定められています。あまりに大きな個体に、多く希釈してしまうと、元気が良すぎる上に図体もでかいので大変なんですよ」
「はあ」
犬が、また増えていく。
「でもねえ、希釈犬のいいところは、コストや時間がほとんどかからないところです」
「はあ。彼らは成長するのですか?」
「しません。希釈犬ですから」
1匹、2匹、3匹、4匹、5匹、6匹…数えきれないほどの犬が、走り回っているのが見える。
「では彼らは死ぬのですか?」
「ええ。ですが、こちらへお持ちいただければ、また希釈することができます」
「は、はぁ、なるほど」
「早い話、オリジナルが死なない限り、彼らは死なないのですよ。希釈できれば死にかけの個体もたちまち息を吹き返します。まぁでも、面倒なら死んだままにすることもできます」
犬たちは縦横無尽に駆けずり回っている。皆身体の大きさはバラバラだが、おんなじ顔をしている。
「オリジナルは、死ぬのですか」
大きくて優しい目をした犬を見上げながら、私は尋ねた。
「それが、よくわからないのですよ」
大きな犬の瞳は、私の方を向いていない。
「オリジナルが一体いつからここにいるのかも、いつからこんなふうに希釈することになったのかも、私は知らないんですよ」
「し、知らないのに希釈し続けているんですか、ずっと」
「私だけじゃない、たぶん私の上司も、なんなら世界の誰も、知らないんじゃないですかね」
「はあ」
「でもいいじゃないですか、現にこうして、犬を飼いたい人がたくさんいて、そのニーズに安く応えられるんですから」
「そうですかね」
「そうですよ」
男はそう言って、何かを思いついた顔をしてその場から去ると、掌サイズの希釈犬を持って戻ってきた。
「これ、あげますよ」
「え」
「廃棄する予定だったんです。失敗しちゃって」
「失敗?」
男の手のひらの上で、希釈犬は丸くなって眠っている。呼吸に合わせて身体の表面が上下しているのが見て取れる。
「機械のエラーで希釈量が少なかったみたいで、眠りっぱなしなんですよ。もう一度希釈すると多くなりすぎるので、廃棄するしかなくて。よかったらあげますよ」
「は、はあ、わかりました、いただきます」
私は男の手のひらから、小さな希釈犬を受け取った。
「エサは何をあげたらいいですか」
「ああ、いいえ、要らないんですよ。希釈犬には。ですからトイレのお世話も必要ありません。あなたのは特に。眠っているだけですから」
「は、はあ」
「まぁ、要らなくなったら捨てていいですよ。放っておいて、時間が経てば死にます。希釈しなければね」
「わ、わかりました」

生まれて初めてコップに飲み物を入れて運ぶ子供みたいな慎重さで、私は眠っている犬を持ち帰った。
男に言われた通り、犬はずっと眠っていた。
変なの、と私は思った。犬というのは、昔からこうだっただろうか、とひとりで首を捻ってしまう。というか、あれは本当に犬なのだろうか。

数日後、世界中の希釈犬が一斉に暴れ出し、人に危害を加え始めたというニュースが、私の耳に飛び込んできた。街中は阿鼻叫喚で、自衛隊が希釈犬の駆除に当たっているという。
希釈犬は、殺したら死ぬのだろうか。あの男に聞きそびれたなとふと思った。時間が経てば死ぬ、とは言っていたけれど。
時間が経つ前に、我々の方が皆殺しにされるかもしれない。
男は生きているだろうか。あんなところで働いていたら、真っ先に襲われてしまうだろう。

世界中で希釈犬が暴れまわっている中、私の部屋の希釈犬だけは、いつまでもあどけない表情で、すやすやと寝息をたてているのだった。

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