トップの仕事。

 アンサンブルでは指揮者がいるにしろいないにしろ、方法は変わらない。どんな編成/作品でも、指揮者が欲しい瞬間もあれば猛烈に邪魔くさく感じる刹那も正直ある。完璧な思想や現実を直視しない頑なな理想はできるだけ封印して臨みたい。社会と同じ──もっとわかりやすく有限化するなら、交通ルールと同じだ。
 まず演奏を披露する場は、ほとんどの場合、研究発表の機会ではない。オーケストラは指揮者や作曲家のモルモットではないし(どう扱っても自由だが、うまくいかないだろう)、作品を「演奏」として現実に鳴らす目的がある。背骨の通った演奏家たちはその研鑽まで察してほしいと思っていないが、単純に「権利から主張する人間は取り合ってもらえない」ということだ。音楽も借り物(または預かりもの)で、誰かが取り憑かれ取り組んできたもの。そこへ自分も加わる。自己の為に利用するのも自由だが、自己研鑽がなければ長くは続かない。伝統とか歴史は個人と関係ないので正直どうでもいいが、そういう風にしか見ることのできない外野からすれば、クラシックなんてルールガッチガチの窮屈な世界に観えもするだろう。外にいる限り。時代や国が変わっても、ここまで流行らなくなってもその真髄は楽々何事も貫通してしまう、だから「普遍」なのだ。
 ジャンルはどうでもいい。が、ジャズのミュージシャンでも楽譜を尊重できる/正確に音にできる人は少ない。楽譜は単なる「前提」だが、読み込む力が不足していると、混乱し支配されたような気になる。見落としていた楽譜の指示を見つける度、窮屈になっていく感覚は、単純な誤りである。クラシックが他と比べて優れている音楽かわからないが、クラシック音楽にこん日伝わるノウハウで、プレイヤーとしてあらゆるジャンルをそのまま往来できるのも事実だ。アンサンブルに必須の耳さえ開いてしまえば。
 クラシック音楽の指揮者は交通整理をしている。各自セクションのトップ奏者は、先頭を走っている。
 例えば前の車に続いて交差点を抜けるとき、なんとなく前の車が通った道筋を準えて通過することが誰しもあると思う。先頭を走り「その時の青信号で交差点を抜けるルート」を決めるのがトップ、追随するのがtuttiである。tutti奏者はほとんど聴覚だけでトップの情報を受け取り、察する必要がある。オケの席順は「うまい順」ではない。もちろんトップにはバケモノ級の奏者に座ってほしいが。
 本来指揮者もそのはずが、ほとんどの指揮者はわかっていないらしい。うまくいかないことが多い。と、思い返してみると、もしかするとオーケストラの中にも、まるで違う発想の人がいるように思う。単純な場面なのにどうにも合わない、ということがままある。向こうもきっとこちらと同じくらいの違和感を抱いているはずなので、功罪ではない。
 トップ奏者の出すアインザッツ(合図)は、"次の入り"ではない。もちろん示唆する役割もあるが、だいたいみんな自分で数えているし、楽譜を見ながら指揮も見ているので、「入るところの合図」なんかほぼ要らない。コンサートマスターに次の拍、次の拍、と合図を出しながら弾かれると、それこそ他に選択肢がないような(我々は農墾民族なのでつい血が感応してしまう)気分になる。手足を縛られているような。蜂蜜の中を泳ぐような。
 では、優れた、というと語弊があるが、信頼されるコンサートマスターはどこの合図を出しているのだろう。セクションのサウンドが贅沢に鳴るトップの仕事振りとは。簡単である。彼らは音の切り方の合図を出している。僕も僭越ながらトップを弾く仕事に恵まれることもあるが、その際は「次へ」と各自で勝手に先走らず、きちんと聴き取って揃えてほしい部分だ。出発した音が、フレーズが、どこまでなのか。反対に自分が誰かの後ろで弾くとき、トップに座っている人の楽譜の読み方、音の聴き方を察するように努めている。そういうやりとりを介してセクションのサウンドが構築される。他の細かい部分は実は概ね客席へは伝わらない。間違ってもセクション内が騙し合い、引っ掛け合いの心理戦にならないように協力し合いたい。
 音楽をやろう、と思って集まっているんだから、感じながら弾くつもりはみんなにある。アンサンブル能力が低い人は、自分のことしか考えていない/考えられない。一人そういう人がいると、全体がどうしてもそのレベルに揃ってしまう。下に合わせることが平等だった、義務教育からの慣習が由来でもある。だからトップに座ったら、とにかく忍耐なのだ。僕が頭を弾くくらいの団体ではいつも、信じられないくらい人数分の音が後ろから聴こえてくる。まとまらないし、いつまでも合わないことも。放置するのはよくないが、団体として(規模にもよるが)悪いことではないと思う。本番は合わせるし、最初から合わせにいってるより、だんだん合ってくるほうが楽しい。ただ、そこは集中して合わせとこうよ、な箇所をなんとなくやられると、カチンとくることもある。
 後ろの席へリクエストするとき、なるべく言葉は使いたくないが(格好付けでなく口は災いの元、思わぬ誤解も生む)、必要であれば「音の切り」に留意してもらうようお願いしてしまう。口を使うのは、アンサンブルをある程度諦めたときだ。
 そもそも音価についてデフォルトで留意できないクラシック音楽の演奏家って大丈夫なのか…とも思うが、まぁ方法はいろいろあるので。僕は僕の、おそらく日本のトラディショナルスタイルに則った正攻法で、これまで手も足も出なかったことはない。なんとかなる。
 本題に戻る。切り方、つまり拍の跳ね上がり方が明確にわかれば、周囲は音の放物線を思い描くことができる。次の拍を狙わなくても、勝手に合う。大切なのは準備/振りかぶり方だ。
 但し楽器を鳴らせていないと、理屈だけわかっても実践できないので、ある一定の演奏技術を有していないと本来の理解には及ばないものらしい。ここが難しい。いつまた錯覚──いわゆる色眼鏡をかけた状態に陥っているか、自分でも慎重であり続ける。僕も自分自身で感知できるまで、ほとんどファンタジーやSFに近い感覚として捉えていた。言語化してもそういう肝心の部分は残念ながらえてして分解することができない。
 切り方を合わせる(よく聴き、想像する)ことができれば、的当てのような恐怖はほとんどなくなる。演奏する感覚が「音ゲー」ではなくなる。だが休符に挟まれた静寂の中の一発だけのPizz.、オマエはいつまでも怖い。


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