ZEROtoSUMMIT を走りはじめた日
20年ぶりの再会
5年前の5月初旬、いまはなき日大津田沼ワンダーフォーゲル部OBOGらによる集まり「近藤先生を囲む会」が、千葉県佐倉市の某ホテルにてあった。
残念ながらぼくの代で廃部となり、そのすこしあとで顧問・近藤先生の退任を祝う会を西新宿京王プラザホテルで開催して以来、じつに20年ぶりの集まりだった。
近藤先生は御年八十歳あまり。
そろそろご様子が気になり始めていたので、声をかけられ二つ返事で参加を表明。当時と変わらぬ元気なお姿に安心した。
生きながらにして伝説化している鬼顧問・近藤暉(あきら)先生。
現代では絶対に成立しえない、精神主義的登山哲学の巨壁を前に、学生だったぼくは一体どれだけ打ちのめされ、涙を流してきたことだろうか。
あのときの悔しさや苦々しさは、ここには到底書き切れない。
同じ思いをしてきたであろう先輩たちとのあいだには、時空を超えてすべてを共有しあえる、不思議な一体感が生まれていた。
(※冒頭で触れたように自分の代で廃部になったため、ぼくは永久に最下級生なのである。)
20年分のおもい
先生を前に、ひとりずつ近況報告をしていく。
最後尾のぼくは、この20年のあいだ言う機会もなく、モヤモヤしていた思いを吐露した。
社会に出る直前に多くを教えられ、いまもぼくの心のど真ん中に居座りつづける先生にひと目お会いし、改めて感謝の気持ちを伝えること、そして先輩方に廃部のお詫びの気持ち──我々の代で廃部にしてしまったことについての心からの懺悔──を伝えること。
このふたつのケジメをつけることが、当会出席の大きな目的だった。
「お前がそんな重荷を背負っていたなんて、まったく知らなかった。後輩にそんな思いをずっとさせてしまい、悪かった」
とある先輩に言われ、肩の荷がやっとすこしだけ下りた気がした。
ZEROtoSUMMIT の告白
あいさつがひと通り終わり、ZEROtoSUMMIT の構想を立ち話したところ、先輩から命令が下った。
「おい、二神。それを近藤先生に話せ。それが一番の恩返しだぞ」
このランニング・プロジェクトについて、ここ一二年構想をあたため続けていた。自分としては一定の感触を得ていたが、確信を持つまでには至らずにいた。
根っからの体育会系気質のぼくにとって、先輩のそれは絶対命令だ。腹をくくり、先生の前に出た。
「すみません。ぼくの計画について、聞いていただけますか」
プロジェクトの趣旨、ラフプラン、そしてこれが先生の "教え" をいかに反映させているか。率直な思いを一気に打ち明けた。
最大の恩師からどんな反応が返ってくるのか、学生時代に合宿基本計画を伝えるときと同じくらい緊張し、強烈に喉が乾いてくるのを感じた。
ネックになるだろうとひそかに考えていた最大の課題を、先生から即座に、そしてピンポイントで指摘された。
まだまだだった。あの頃から先生はずっと偉大で、ぼくはずっと未熟なままだった。
ただ、ひとつだけ学生時代とは違う言葉があった。
「大いにやりなさい」
あのころは計画も人間性もことごとく否定され、君という人間がいかに自然を、そして君自身をわかっていないかと説かれた。それでも山に行きたいなら行ってくればよい、とたしなめられた。
なぜここまで言われながら、ぼくは山に登らなければならないのだろう。
情けない。そして悔しい。キャンパスの芝生に寝転び、涙をこらえながら、終電間際の星空を何度見上げたことだろうか。
しかし、卒業まで一度も褒められたことのなかったぼくが、初めて先生に肯定され、背中を押された。その瞬間、ZEROtoSUMMIT は走りだした。
計画書の緊張
「計画書を郵送するので目を通してください」
勢いを借りてそう願い出たところ、快諾していただいた。
まさかこの歳で、ふたたび先生に計画をチェックしていただけるとは!
現役時代、山行計画書を近藤研究室に持参するたび、いいかい君ねぇからはじまり、直立不動の姿勢でお説教を4,5時間聞きつづけるという修行を積んできたぼくとしては、あの時以来の身の引き締まる思いだった。
が、同時に妙に懐かしく、そして嬉しい。
もう引くに引けない。そう思った。
計画書はまだかい?
計画書は、なかなかまとまらなかった。
誰からも頼まれず、期限もなく、自分の意志ひとつのこのプロジェクト。
サボろうと思えば、いくらでもサボれた。
ある日、近藤先生と頻繁に連絡を取りあっていた先輩から、連絡が入った。
「二神から計画書がまだ来ない、あいつは一体いつになったら送ってよこすのだと、先生は気にされていたぞ」
冷や汗が出る思いだった。現役時代なら、鬼の近藤の大説教だ。急ピッチで計画書作成を進め、一ヶ月後にようやく郵送した。
一二週間後、さっそく返信が届いた。四十七都道府県別最高峰の特定についてぼくの誤りを正し、それらと海をつなぐ河川についても先生の見解が述べられていた。
愕然とした。
ネットなど到底使いこなせるような人ではなかった。つまり、先生の頭の中には、すべての地形図が収まっていたのだ。
そして2016年。
ZEROtoSUMMIT は東京篇からはじまった。報告書はまっさきに、近藤先生に送った。
突然の別れ
いま思えば、先生は死期を悟っていたのかもしれない。
だからぼくに計画書を催促したのかもしれない。
そして、もしかしたらこの ZEROtoSUMMIT が、先生ご自身の最期の山行だと考えていたのかも……
翌年、先生は亡くなられた。
5年前のあの会を契機にOBOG会復活の気運が高まり、都内で忘年会を開催していた当日、人知れず旅立たれていた。
そしてその夜、ぼくは夜行バスで岐阜に向かった。「いまのうちに会っておいたほうが良い」と数日前に家族から言い渡され、すこし前から寝たきりになっていた岐阜の祖母に会いに行くためだった。
年が明け、正月気分が抜けたころに先生の訃報をきいた。ほどなくして、祖母が旅立った。2018年1月のことだった。
走りつづけるということ
ひとつの時代が終わった。
報告書の送り先を、一気にふたつ失った。ネットやメールでやりとりできるいま、紙に出力しなければ報告書を届けられない相手が二人だけいた。それが祖母と近藤先生だった。
安くはないコストをかけて、自費で報告書をつくる明確な理由をぼくは失った。題辞のことばは自然と出てきた。
あれから二年が経った。祖母も近藤先生も、新型コロナで騒然となっているこの世を、どんな思いでみているのだろうか。
走るに走れず、茫然としているぼくを、どんな目で見つめているだろうか。
この5年で、ぼくはどこまで成長できたのだろうか。
あの日からどこまで走ってこれたのだろうか。
「大いにやりなさい」
あの日の先生は、短くそう言った。
ぼく自身より、このプロジェクトを楽しみにしているようにも感じた。
立ち止まるわけにはいかない。いまは走れなくても、たとえゴールできなかったとしても、走れるようになったらぼくは走らないといけない。
ぼくが ZEROtoSUMMIT を走らなくてはならない理由は、多くはない。
が、すくなくとも、あることには間違いない。
たったひとつのたしかな理由。
それさえあれば、ぼくは走りつづけることができる。