障害は「できればないほうがいい」のか?
最近、障害は「できればないほうがいい」ものなのか?障害者は「できればいないほうがいい」ものなのか?という問いについて考えていたが、自分の中で一応の結論が出たので、ここに書き記しておきたい。
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「障害」というくくりで考えない。分解する。それにより本人を生きづらくし、主体的自由を持った生を妨げる「バリア」は無いほうが良い。一方で、この社会に多様性をもたらし、「人間」という言葉が含む意味を拡張するものとしての「個性」の意味合いが、現在の「障害」には含みこまれている。これはあったほうが良い。そして、例えば近視はメガネが無ければ「障害」だが、メガネがあまりに一般的になってしまったため、もはや障害とは考えられていない。つまり、インペアメントがあったとしても、バリアの解消が完全に一般化したためにそれはもはや障害ではなくなり、彼らの生産性や命の価値がどうこうだとか、障害者のわがままだとか、そのようなことは誰も言わない。つまり技術や社会のありようによってバリアがなくなれば、「障害」も「障害者」もいなくなるのであり、「障害者」の生を否定するということも起こりえない。
つまり「バリアが無いほうがいい」、と言ったときそれは「障害がないほうがいい」、という意味ではないし、ましてや「(現在の社会で)障害者(とされている人々)がいないほうがいい」という意味ではない。あくまでその人という存在から切り離すことが可能な、「バリア」が無いほうがいい、というだけのことである。
特に知的障害者や精神障害者のバリアは物理的ではなく、多分に社会的であり、周囲の人間がどういう態度を持ち、どのように反応するかという点にかかっている部分が大きいため、不可視化され、多様な差別が「本人が変だから」という理由によって正当化される。
出生前診断についても、「普通の子に生まれてほしい」という思いは、より正確に言えば「バリアが無い子が生まれてほしい」という事なのである。そう思う親の気持ちは優生思想ではなく、ただ子供の幸せを願っているだけである。出生前診断は、「胎児に障害がある→中絶」が即座につながってしまう現状において問題になる。理想を言えば、どんな子供が生まれても彼がバリアを抱えずに済み、多様性に開かれた社会となるとよい。このためには技術の進歩と社会の進歩が必要である。しかし、技術の進歩は時間がかかるのに対して、社会の進歩は、なんらかのきっかけさえあれば、少しずつだがすぐにでも始められることだ。事件を繰り返さないように、あらゆる命が生まれてくることを歓待できるように、社会は変わらなければならない。
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