レナードの朝(1990)
このような映画が作られる意義を大切にしたいと思う。ただ感動させるための映画ではない。よく観察すること、声なき声に耳を澄ませること、決してあきらめないこと、知識と科学の力を(そして限界も)知る事。そしてこれが現実にあった話(もちろん映画的脚色はある)だということ。
脚本は先日観た『ボビーフィッシャーを探して』のスティーヴン・ザイリアン。
私の仮説だが、この映画はミロス・フォアマンの『カッコーの巣の上で』を下敷きにしているのではないかと思う。「カッコー」の舞台は精神病院である。そこへ手のつけられない男マクマーフィーが患者としてやってくる。彼は常識と権力に決して屈しない男である。常識もない代わりに先入観もない。彼はその手で患者達を解放していく。脱走を図り、自由と生きる喜びを教え、皆のリーダーになっていく。ラストでは生とは何なのか、死とは何なのかという問いに終わる。
要するに、怒りや戦いではなく、科学の力で患者を解放しようとする男の話が『レナードの朝』である。こちらの方がよりポジティブで明るい印象を受ける。カッコーでは男性だけだった患者も男女が混じり合っていて、よりカラフルな印象だ。
ロビンウィリアムズ演じる医師セイヤーはもともと研究者である。じっと観察し、推論を立て、患者を救おうとする強さを持った人だ。彼にとって研究という好奇心と、人を救いたいという優しさは表裏一体で切り離せないものである。セイヤーはレナードという患者を治療し、解放していく。レナードは人生の喜びを感じ、その姿を見て、セイヤー自身も人生の喜びを再認識していく。そして考える。死とは何か、生とは何か。生きている状態、死んでいる状態について。自分の研究者としての好奇心は本当に人を救っているのだろうか。
発作を起こしたレナードは叫ぶ「カメラを回せ!学べ 学べ 学べ!」
これはとても分かりやすい“演出“である。要するに、遠慮なんかしてないで映画を撮れということだ。この映画を通して、世界を知れ、そして学べという強烈なメッセージだ。
今見ると、患者を健常者がモノマネのように演じるというのはPC的にどうなんだという議論が出てきそうではある(内容的にも健常者でないと演じられないのだが)。おそらく、そういったリスクもあるので、昨今では作られない類の作品なのではないか。
しかし、この作品が実際の医療関係者にとって議論や共感を呼ぶのも事実だ。きっとこの作品を見て医療の分野を目指した者だっていると思う。そうやって現実に訴えかけ、現実を変えていくような力のある作品だと思う。このような作品が勇気を持って制作されることは非常に意義のあることだと思う。フィクションでも現実でも、何かを変えるために必要なのは「やさしさ」なのだ。
・『レナードの朝』という邦題が素晴らしい。原題は『Awakenings』つまり「目醒め」。レナードにとってそれは特別な瞬間だったという主題が邦題では見事に表現されている。
・サウンドトラックも良い。ピアノの静かな音が病院という空間と、ほんの小さな変化を感じるのにピッタリの役割を果たしている。