雑司が谷散人の街道遊歩 0484
東海道 24日目-14 2018.8.29
沓掛の集落に入る東海道旧道。
途中、東海自然歩道との交点がある。
東京の高尾山から山間部を辿りながら箕面へ向かう東海自然歩道と東海道が交わるのは、ここが初めて。
鈴鹿川上流部の谷間を坂下宿へ向けて緩やかに上っていく東海道旧道。
のどかな里山風景が続く。
亀山から草津までの東海道旧道は、明治28年に柘植経由の関西鉄道開通により衰退が進むが、国道1号経由での亀山~草津間は国鉄バス亀草線が長らく東海道の往来を支えてきた。
その亀草線も平成9年に完全撤退。
鈴鹿馬子唄会館脇の坂を上っていく東海道旧道。
ここに、日本橋から三条大橋までの五十三次が書かれた標柱が並んでいる。
三重県の奥地まで来て川崎、神奈川、保土ヶ谷などの地名を見ると、改めて遠くまで歩いて来たなあ、という感慨が。
東海道旧道右手に鈴鹿峠自然の家。
この建物は旧坂下尋常高等小学校で、昭和13年築。
正面からではわからないが、2棟の校舎を廊下でつないでロの字型になっている。
河原谷橋を過ぎると、坂下宿。
といっても、のどかな風景が続くばかりで、宿場跡を思わせるような名残はあまりない。
難所、鈴鹿峠を控えた坂下宿。
江戸期には旅籠や本陣の数も多く、東海道有数の盛況な宿場として知られたが、今はその面影も無く、ひっそりとした集落に。
関西鉄道(後の草津線、関西本線)が鈴鹿峠を避け、柘植経由で開通して以降、交通の要所を外れた坂下の衰退は急速に進んだという。
亀山市内からのコミュニティバスが日に数本折り返す伊勢坂下バス停手前に、松屋本陣跡の標柱。
坂下宿には3つの本陣があった。
この先は、いよいよ鈴鹿峠となるが、今回はここまで。
コミュニティバスに揺られて来た道を戻り、JR関駅にて本日終了。