雑司が谷散人の街道遊歩 0649
中山道 2日目-08 2019.1.1
中山道の前身となる街道が整備された際、浦和宿の次は上尾宿。
大宮宿の開設は江戸期に入ってからといわれる。
これにより江戸日本橋から一日行程の限界が大宮宿となり、脇本陣が中山道最多の9軒という規模となった。
最盛期の大宮宿は、吉敷町、下町、仲町、大門町、宮町の5町で構成された。
大宮駅前の雑踏を抜けると、氷川神社裏参道。
官幣大社氷川神社と刻まれた石柱が中山道旧道に面して立つ。
官幣大社は官社の最高社格で、東海道でいえば三嶋大社や瀬田唐橋の建部大社などがこれにあたる。
氷川神社参道を経由していた当時の中山道は、社殿の前からこの裏参道へと抜けていた。
中山道旧道は東武野田線とJR東北本線の下をくぐる。
名称は「第2仲仙道ガード」。
板橋宿手前の埼京線の踏切も「仲仙道踏切」だったが、旧国鉄では中山道を「仲仙道」と表記する基準だったのだろうか。
江戸期の道中奉行が「中山道」への表記統一をしたのは、享保元年。
東大成地区に入る中山道旧道。
左手の鳥居の奥に、庚申塔の祠。
地元で耳の神、目の神として大切にされてきたもの。
新幹線の高架下をくぐる中山道旧道。
やがて仲屋前バス停。
このあたりが加茂宮一里塚跡地というが、今は痕跡も案内も何も無い。
宮原地区に入る中山道旧道。
左手に橋供養塔。
かつてこのあたりで中山道は小さな流れを渡っていたようだ。
この後、JR宮原駅で中山道の旅2日目を終了。
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