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雑司が谷散人の街道遊歩 0703
中山道 4日目-03 2019.3.19
榎戸堰からの元荒川。
かつての荒川本流。
堰は榎戸の他、三ツ木、宮地、末田須賀の4基がある。
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榎戸堰から中山道旧道を少し進むと、元荒川から農業用水を送水する榎戸堰組合用水が南へ延びる。
中山道との交差部分にある煉瓦造りの親柱のような塔は、樋管の出口部分で、中山道との交差ということもあって、敢えて橋を真似たデザインになったものという。
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中山道旧道は荒川左岸の熊谷堤へ。
その手前左手に権八地蔵の祠。
脱藩して江戸へ逃れる途中の平井権八という鳥取藩士が、この地で商人を殺害して金を奪うと、地蔵がそれを見ていたことに気付き「誰にも言うな」と手を合わせたところ、「汝も(地蔵が喋ったと)言うな」と口をきいたという。
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権八地蔵のあたりを、荊原(ばらはら)という。
地蔵の祠から住宅地を抜けると、大日堂。
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荒川左岸の堤防上に上がる中山道旧道。
この先の久下の集落を抜けるまでの約2.5キロは、熊谷堤の上を中山道が通り、久下の長土手と呼ばれた区間。
堤は天正年間に鉢形城主だった北条氏邦によって築かれたもので、北条堤とも呼ばれた。
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