雑司が谷散人の街道遊歩 0717
京街道 4日目-05 2019.3.20
天満橋交差点を直進すると、左手は天満橋京町。
京へ通じた京街道沿いを示す京町の町名は平成元年からで、それ以前は江戸期以来、京橋2丁目。
天満橋交差点から2つ目の信号角に、熊野街道の起点を示す碑が立つ。
熊野街道は熊野三山への参詣道で、交差点を右へ入った大川左岸は、古く渡辺津と呼ばれた瀬戸内への舟運の拠点。
京から淀川を下ってきた熊野詣りの旅人は、渡辺津で船を降り、熊野街道を南へ向かった。
土佐堀通は天神橋南詰へ。
天神橋は文禄3年の架橋といわれ、寛永11年から幕府所管の公儀橋となり、大川上流から天満橋、天神橋、難波橋の順で浪華三大橋と呼ばれた。
今のように中之島の先端を跨ぐようになったのは、大正末期頃のこと。
天神橋交差点を過ぎると、土佐堀通右手にはスクラッチタイル貼りの重厚な外観が美しい、旧大林組本店ビル。
大正15年築。
土佐堀通の葭屋橋手前を左へ折れると、京街道、そして東海道五十七次の終点、高麗橋が見えてくる。
東京日本橋が首都高速の高架下で様々な景観論争を引き起こしているが、高麗橋も上空を阪神高速の高架で塞がれ、薄暗い印象になっている。
高麗橋の架橋は、大阪城築城の際に開削された東横堀川と同時期と思われ、当時は東詰に難波高麗間が置かれたことからその名があるという。
明治3年には大阪で初の鉄橋となり、京街道の他、中国街道、暗越奈良街道、紀州街道、亀岡街道などの起点が高麗橋に移され、西日本の里程元標が置かれた。
かつては豪商の店舗が並び、商都大坂の中心部だった高麗橋だが、大阪駅が梅田に開業して以降は賑わいが失われ、今の橋の風景から往時を偲ぶことも難しくなった。
改めて東京日本橋からの東海道、京街道の行程に思いを巡らせながら、橋の袂でひと休み。
これでひとまず「東京から大阪まで歩いた」と言える実績ができた。
東海道を延べ29日、京街道を延べ4日、合わせて延べ33日の旅。
実感が湧くまでは、もうしばらく時間が必要かもしれない。