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忙しなさが世話しなくなるその前に

毎日が過ぎていく。それはそれは「忙しなく」という言葉が似合うほどに。
本年よりジャパニーズ式日めくりカレンダーを導入した我が家である。日をめくる行為は朝にするという謎の?こだわりを維持し続けているのだが、めくる度にめぐる思考はいつもおんなじ、「もうこんなに過ぎたのか」という感覚。
こんなにも寒いのに、誰かが強烈にこの日々を溶かしているのだろうかと錯覚すらしてしまう。溶かせるのは自分だけなのに。
そんな毎日を過ごしていると、時折、自分を「世話しなく」なるフェーズが訪れる。ああ、だから忙しなくなのかとか余計なことを考える脳はあるのに、またあたふたと時間に追われ、タスクに追われ、気付けば一日に追い出される始末。
それはそれで充足する感覚が手招きしてくるから、なんだか憎みきれないし。

デザインが秀逸なのです


「20代のうちに色々とやった方がいい」
「若いうちに脇目を振ってはだめだよ」

社会人になってよりかけられるようになった人生の先輩たちからの言の葉たち。
「そうだよなあ」と思う自分はいる。いまはもう、わからなくても、難しくても、できなそうでも、とにかくやってみるフェーズで。小難しいことを机上に並べる前にまず身体を動かそうやと。それは、わかる。わかってる。1年目から副業したり学生の伴走をしたり自分の事業についても歩みを始めたりしたのは、そういった側面があるのは正直否めない。焦り、というよりは「何者でもない今」をいかに充実させられるか、いかに走り切れるかはそのあとの人生に直結してくるのだろうなと思う。それは、わかるのだが。

同時に思う。そんな先輩たちのいわゆる武勇伝たちよ、立ち止まった時間はないのか、と。
こういった武勇伝たちは大体、寄り道せず、妥協せず、いわゆる「全力投資」をし続けた20代、30代の生が舞台の話で。まあきっと、どこかで止まった時間もあったのだろうけど、でもそれにしても強要するのは「走ること」ばかりだなあと思う。人間味がないなあと思って、咀嚼しきれない自分がいるのです。
自分は幸い、「こんな未来を創りたい」といったビジョンは漠然としながらでも明白に持てている。だからこそ、「まだのめり込めるものに出逢ってないんだよ」という言葉は少なくとも受け取れない自分を持てている。でも、そんな自分でも時折、「疲れたなあ」と「走れないかもなあ」と思うことは多々ある。そうした感情が負債となり、段々と自分を「世話しなく」なってくるのです。これは自分が怠惰なだけなのでしょうか、足りていないだけなのでしょうか。いやあ、あると思うんです、人だから。

大切なのは、半ば強制的に走り続けることよりも、何度立ち止まっても飽きがこないものを見付けることなのではないだろうかと思う。

先輩たちの中には自分の「やりたいこと」を若いうちからやり続けてきた偉大な人も沢山いる。一方で、そういった「全力投資」話のほとんどは、ある程度の強制力を孕み、やりたいかやりたくないかは別として「やり続けること」で、振り返ると価値があったと思えるものがほとんどのように思える。就職氷河期に企業に入り、その企業でいかに自分の価値を見出せるかに重きを置いていた時代において、強制力の中を生き抜いてきたからこその価値や、強さや、証明が沢山あるのだと思う。素直に、すごいと思う。

一方で、大学進学が当たり前になりつつあるこの現代社会で、就活生が就職する企業を選んでいるとすら言われるこの現代社会で、若者への手向けの言の葉は果たして何が最適解なのだろうか。特にこの「どんな自分で在るか」が問われる現代において、一つの企業に留まらせることはおろか、強制することなど難攻不落で、若者たちは皆、我武者羅に、無我夢中になれるほどのものを日々、探し歩いている。

大前提、探し歩き辿り着いた場所でやり切ったと言えるほど、文字通り頑張ることは必要不可欠である。特にまだ力のない20代において、余計なことは考えずにチームの成果を出すために何ができるのかを模索することは当然の行為である。それすらやれていないのであれば論外だとは思う。

一方で、以前とは異なり、いまの社会の中で生きる若者は、日々沢山の溢れ切った情報を摂取している。他者と比較することが容易になり、芸能人とインフルエンサーの境目が曖昧になり、退職することすら他力本願になり。時に毒された情報すらも、その作用に気付かず、摂取をしてしまっていたりする。以前よりもはるかに心が平気で侵されるようになった社会で、自分を保ち続けるのは容易ではない。生まれる時代は誰もが選べないからこそ、いまの若者は皆が等しく打たれ弱くなってしまったのではない。社会の、環境の作用の積み重ねが、いまの状態を生み出しているのだと思う。だからといって他責にするのは違うが、責任があるかといわれればそうでもないように思う。

東京の交差点

もし私が手向けの言の葉を紡ぐなら、「"ホッ"っとする時間」というフレーズが頭に浮かぶ。ホッっとするような時間を過ごしてほしいなと思う。
忙しなさが自身を世話しなくなるその前に、ホッと一息ついてほしいなと思う。それは、息を吸い込むのではなく、吐き出す行為。力の入った肩をゆるめる行為。
ワークライフバランスまではいかないかもしれない。ただ、日常に確かに在るスパイスを自身に振ることを忘れないでほしい。
それはドライブだろうか、お散歩だろうか、読書だろうか、食事だろうか。
何でもいい。とにかく、ちゃんと自分を操縦してほしい。そうした行為のあとに、また足を進めたくなるものを見付けていってほしいなと思う。それがきっと、人生をかけて「やりたいこと」なのだろうから。
様々なものが早くなったからこそ、停まることを忘れないで欲しい。色々な道を選べるようになったからこそ、探すことを辞めないで欲しい。そのためにも、せわしなくなりそうなその日まで、全力投資してほしい。

今日という休みの日に私はまた、いちいち手動で豆を挽き、湯を沸かし、珈琲を淹れる。Youtubeでジャズを流したら、布団にもぐり、SNSを見漁ったあとに本を読む。そしてつらつらと日記を書き留める。
ホッと一息をついて思う。よかった、明日もまだ故郷の未来を追いかけたい自分がいるみたい。

忙しなさが世話しなくなるその前に


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