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社会に出て半年が経って、
「東京」
人口1万人の町で暮らしているとき、その場所、というよりも言葉は、とても強い引力を持っていた。学校に行く前のテレビに必ず映し出されるスクランブル交差点の映像。こっちは、どさんこワイドの天気予報で自分の町が映し出されるだけで一喜一憂していたのに、ここの人たちは、そんなものに毛ほどの興味もないのだろうなと思っていた。言わずもがなの「日本の中心」。見るたびに、聞くたびに、まるで自分たちは外側のような、外野からドッチボールをしているみんなを眺めているような、そんな感覚になった。
中学の修学旅行は仙台、高校は京都・大阪だったこともあり、結局、子ども時代は一度もその地に降り立つことはなかった。
大学進学のために北海道を出るときは、まるで異国にでも行くような、そんな気分だった。それくらい、北海道という地は、自分の故郷は「辺境」だった。
「車を持たぬものに人権はない」
そんな場所だった。電車は廃線になり、隣町までは車で1時間程度。公共交通機関はバスのみだったが、基本の装備はチャリ。ショッピングセンターと呼ぶには小さなちいさな商業施設の中には、何世代か前のプリクラとUFOキャッチャーしか置いておらず、遊ぶ場所はいつだって友人の家か公園だった。異性と外で歩くなんて行為をするとすぐに広まり、茶化される。行くお店はだいたい、誰かの両親か知り合いがやっていた。
太平洋を覗み、そびえ立つ日高山脈を背に、走り回りった子ども時代。幸い、熱中できるものに出会っていた自分は、子ども時代の大半をそれに費やしていたし、遊ぶ場所なんかなくたって、なんとかなった。
でも、だんだんと。歳を重ねるごとにこの町には「何もない」ことを自覚するようになった。
スマホが普及し始め、外の世界と繋がれるようになり、この世界は色々なもので溢れていることを知った。〜大学がいいとか、サブカルがどうだとか、トー横の治安があれだとか、よく分からなかった。ただ、この町で生きることに精一杯で、気付けば選ぶ歳になっていた。
「自分のやりたいことはなに?」
「そもそも自分に何ができるの?」
よく分からなかった。漠然と、中学のときのいい思い出が、教職という道を照らしていることに気づいて。そのタイミングで、どっかの大学の学生が「この町に何もないなんて嘘だ」と唄いはじめて。ああ、地域の人たちが繋がるといいなって想いが芽生えて。悩んで、考えて、自分が一番行きたいと思える大学を、自分で選んだ。選んだ先は、異国だった。
ただでさえ異国のその地に、その色を濃くした要因はたったひとつ。街から人が消え、大学には行けず、大学の最初の2年間を、その大半をオンラインで過ごした。移すのがこわくて故郷には戻れず、移るのがこわくて都心には出れず。オンラインで傷を見せ合い、慰め合った後には、必ず孤独な部屋での沈黙が待っていた。あの時の沈黙は色褪せず、自分にとって一番鮮明な孤独の記憶として残り続けている。
3年生からようやく動き出した対面での大学生活は、初心者のくせにハードモードで。就職活動、実習、後輩たちとの関係、卒論、。まだまだこれからって時に、大学生としての寿命は淡々と迫ってきて。
謳歌なんてできなかった。「こんなことになるなら、」と一瞬よぎった脳みそは、父母を浮かべてそれを見なかったことにした。
いろいろなものが緩和され、いろいろなものに迫られ、必然的に都内に出ることは多くなった。スクランブル交差点とか、トー横とか、竹下通りとか、下町とか。東京の明るいところも、暗いところも、温かいところも、冷たいところも、歩いて、話して、感じてみたりした。この街はいつも、どこもヒトやモノで溢れていた。なんでもあった。まだまだ知らない景色が沢山あって、見せたい景色も沢山あって。でもまだ、東京タワーには登れずにいる。
あれだけ光を放っていたあの場所は、思っていたよりも日陰が多かった。音が多くて、建物が多くて、空の面積は少しだけ少なかった。空気は別に不味くはなかったけど、人はいるのに遠かった。スカートの丈は短くて、高校生なのか大人なのかよく分からなくて、おじさんは大体スーツを着てた。駅はいつも混んでいて、信号待ちをすると他の人も沢山待ってた。みんな高そうなものを身に纏って、まるでそれを自分の栄光かのように振りかざし、写真を撮ってはSNSにあげていた。虚栄が充満し、「わたし」も「あなた」もいないことが多かった。
なんか、「何もないな」と思ってしまった自分がいた。
「何かがある」とはどういう状態なんだろうと考える。
お金がある、お店がある、建物がある、自然がある、選択肢がある。
きっと、「東京」という街は、なんでもあって。故に、何かがあるのだろうと思う。
「東京に行けば何かがある」「海外に行けば何かがある」
この「何か」って何を指すんだろう。それを探しに行っていると言われてしまえばそれまでかもしれないけれど。
北海道を出て、5年目になる。
社会人になって、半年になる。
忙しない日々の中で、仕事にはまだ追われるほどの力量で。毎日、生きて。
日に日に遠くなっていく故郷の記憶たち。
ふと、思い出す記憶たちに満たされた気持ちになっていることに気づく。
あの時、確かに、あの町だからできたことがあった。あの町だから生まれた感情があった。あの町だからいま自分はここにいる。
日向の方が多かった。建物よりも木の方が多かった。人よりも馬の方が多かった。外を歩けば、誰かが挨拶をしてくれた。「𓏸𓏸さんから見たよって連絡来たよ」と、いつも誰かが見守ってくれていた。信号は基本押しボタン式だったし、待ってる人なんていなかった。空は広く、周りの大人は大体作業着だった。高校生は前髪が短く、雪が降るとみんなで雪かきをした。
確かに、ヒトはいなかった。モノはなかった。
でも、在る。根っこのような部分を強く照らす何かがある。近くにいれば気付けなかった。自分の町がこんなにも、満たしてくれるもので溢れていることに。
最近読んだ、エッセイにこんな言葉があった。
ずっと「ここじゃない世界に行きたい」と願って生きてきた。
どこか遠い場所に行けば、この身体に付きまとうぼんやりとした憂鬱からも解放されて自由になれるものだと思っていたのだ。けれども大人になり、遠い都市に、遠い異国に行ったとて、そこでまず出迎えてくれるのは新しい憂鬱だ。
けれども、故郷をつまらなくしていたのは、「ここには何もない」と諦めていた自分のほうだったらしい。
あの温かなまきばを守っていきたいと思う。繋いでいきたいと思う。あの町にいる子どもたちが、「この町で生まれてよかった」と思えるように、走っていきたいと思う。
困って、悩んで、迷って、苦しんで。もがいて、選んでいってほしい。その先はきっと、大体異国だけど。私たちはきっと、もっと、なんでもできる。
「分からなくなったら、一旦まきばに行こう」
そんな場所を創りたいと願ってやまない。
社会人になって半年。そんな記しを、ここにのこす。