伊藤計劃『ハーモニー』に描かれた生府社会では、子供がゲームをすることが容認されている。
例のカフェインに対する倫理セッションの後の、霧慧トァンの記述である。
健康が至上とされ、慈しみと思いやりでがんじがらめになった生命主義社会で、子供が家でゲームをしている……
というのは、どうも奇妙なことに思える。
なぜなら、『ハーモニー』が執筆された二〇〇八年当時の日本では、六年前に出版されたベストセラーによって、ゲームとは疑いなく子供の脳と健康に悪影響をもたらすものだと広く認知されていたからだ。
この近未来の生府社会においては、誰も森昭雄『ゲーム脳の恐怖』を読んでいないのだろうか?
当然ながら、伊藤計劃はゲーム脳の存在を知っていた。
『ハーモニー』刊行直前の2008年11月に書かれた彼のブログには、映画「デス・レース」の感想としてこのような記述がある。
しかし、ここでは文脈上、ゲーム脳という言葉は「ゲームと現実の区別がつかない人」という意味合いで使われている。森が主張するタイプのゲーム脳を信じていたという意味ではないようだ。
それどころか、彼はブログでこうも書いている。
このようなゲーム脳に対する批判は、出版当初から多くの学者・有識者から指摘されてきた。ニセ科学に対する批判・反論記事について調べたことのある人なら、一度は目にしたことがあるだろう。
反論の量があまりにも膨大なため、ゲーム脳に対する詳細な反論は、本記事では割愛する。
さて、そんな世間を悪い意味で騒がせた『ゲーム脳の恐怖』だが、本書をアイデアの源泉として執筆されたSF作品が2004年に刊行されたのを御存知だろうか?
有村とおる『暗黒の城(ダーク・キャッスル)』がそれである。
第4期京都大学SF・幻想文学研究会OBを主体に結成されたSF・幻想文学の創作・レビュー・翻訳を行うサークルである「カモガワSFシリーズKコレクション」が刊行した同人誌の中で、神譲γ氏による『暗黒の城』の詳細なレビューが記載されていたが……その評価はかなり手厳しい。
そして本作は、第5回小松左京賞受賞作品でもある。
伊藤計劃『虐殺器官』が落選した、あの小松左京賞だ。
ここで、伊藤計劃ファンにとっては有名な、小松左京による第7回小松左京賞最終選考選評をもう一度読み返してみたい。
果たして小松左京は『ゲーム脳の恐怖』を信じていたのだろうか?
それはわからないが、「ゲーム好きであることはイコール、社会不適合者か悪人であることを意味する」物語を「重量感あふれる迫真の作品」と評価した小松が、そのゲーム好きである伊藤の作品を高く評価するのはどうも難しいのではないか……と自分は思う。
さて、その迫真の作品と評された『暗黒の城』だが、そのアイデアの中核になるのはズバリ「ゲーム脳による新人類の誕生」だ。
死への忌避感を持たない新人類への恐怖。
2015年に宝島社から出版されたファンブック『蘇る伊藤計劃』の中で、作家の岸川真は「(伊藤計劃の作品において)彼が映画評で触れるピーター・ウィアーには密かに影響を受けている」としたうえで、ウィアー監督の1993年の作品である『フェアレス』に触れてこう書いている。
そして伊藤計劃自身も、「死からの逃避」についてこう述べている。
インターネット。コミュニケーション。死からの逃避。
それは『暗黒の城』も小松左京も言っていたことだ。
しかし、ゲーム脳がニセ科学だというのなら……
死からの逃避もまた、偽物だということにならないだろうか?
***
森昭雄『ゲーム脳の恐怖』では、あらゆるゲームが害悪であるとは書かれていない。中には認めてやってもいいゲームもあるというスタンスをとっている。そのひとつがダンスゲームだ。
健康的で楽しく。
いまなら確信を持っていえる。
あの倫理セッションの後、トァンが家でやっていたのは、ダンスゲームだと。
生府社会の違和感に苛まれながら、霧慧トァンは踊っていたのだと。
しかし森昭雄は「ゲームは反射神経をよくするわけではない」とも述べている。
ゲームに大脳皮質が関与してないというのなら、ゲームにそもそも意識は関与しているのだろうか?
さて、2021年12月。
バイオテクノロジーと工学を融合させる合成生物学の研究をしているオーストラリアとイギリスの研究チームは、iPS細胞の技術を使ってペトリ皿の中で培養した人間の脳細胞にゲームをプレイさせることに成功したと発表した。
人の脳細胞を培養するという技術は、2019年の時点ですでに確立されている。
2019年8月、カリフォルニア大学サンディエゴ校において神経科学の研究チームは、ヒトの皮膚の細胞から培養した豆粒サイズの細胞組織「脳オルガノイド」から、人間の胎児に似た脳波を検出することに成功したとの論文を発表した。
研究チームは今後、脳オルガノイドをさらに改良して、自閉症などの神経網の機能不全に起因するとされる疾患や、その治療法に関する研究を進める予定だという。
ついに、わたしたちはここまで来た。
(了)