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浜益の鰊番屋は、旅の人が集まる場所

今回は、はまます郷土資料館についてのお話です。

浜益の郷土資料館は、元々は番屋(旧白鳥番屋)だった場所を残し、ニシン漁にまつわる歴史を伝える施設として維持されています。ニシン漁が盛んだった頃の漁具や生活用品、当時の写真などが展示されています。

そもそも鰊番屋とは一体どんな場所なのでしょうか?

ニシン漁をする漁師さんが作業をしたり、寝泊まりをする場所のことを鰊番屋といいます。ニシン漁場の経営者は「親方」と呼ばれ、番屋は親方家族の生活スペースと、漁師さんたちの生活スペースに分かれていました。

なんと当時は100人ほどの人たちがここで共同生活をしていたそうです。ニシン漁に励む旅の人たちが一緒に番屋で生活をしていたんですね。

浜益では外から来た人のことを「旅の人」と呼びます。この呼び方が文化として残っているのも、ニシン漁が盛んに行われていた頃の名残りなのかもしれません。

江戸から明治の頃には、北前船も旧白鳥番屋を訪れました。
立ち寄った場所で積荷を売ったり、新たな仕入れをしながら、大阪から北海道にかけて日本海を往来する大きな商船のことを北前船と呼びました。

北前船は、シメ粕(肥料になるもの)、身欠きニシン、魚油などニシンの加工品を浜益で仕入れて運んでいきました。そのため、本州から北海道へとたくさんの人が渡ってきて浜益にもニシンの漁場を構えたのです。

当時の鰊番屋は、浜益の人も、旅の人も、様々な人が滞在して交わる場所になっていたのですね。

現代ではインターネットが普及して、場所を選ばない働き方が増えてきたように感じますが、鰊番屋があった時代も住んでいる人だけでなく、外から来た旅の人たちが様々な働き方で浜益に関わっていたことを学びました。

ネットワーキング浜益第6号(1989年6月15日発行)には、「ふかんば」が主催で行った、番屋探検ツアーの様子がトップ記事を飾っていました。浜益村内外から6人が参加し、中には朝刊で見つけてかけつけてきたという石狩在住の方もいらっしゃったそう!

明治32年に建てられた、今の郷土資料館である白鳥番屋ですが、一時崩壊寸前だったそう。昭和46年の浜益村の開村百年記念事業として復元したのが今の郷土資料館。

番屋探検ツアーでは、そんな旧白鳥番屋をはじめとして、様々な番屋を周ったようです。一括りに「番屋」と行っても、一つ一つの特徴は様々。
ツアーの最後に訪れた「木村原作邸」。ここでの記事では、「洋風の応接間はいつも人を暖かく待ち受けているようであった。」との記載がありました。洋風を取り入れているのは番屋としては珍しいそう。こういった、番屋によって違いがあるのも面白い所かもしれません。

番屋を見ながら、かつてのニシン漁を行っていた人たちに思いをははせ、浜益の人も、旅の人も番屋に集まったツアーだったようです。

人々の暮らしや歴史がたくさん詰まっている番屋。
その番屋を、残すのか、それとも壊すのか議論もあったようです。

ネットワーキング浜益第9号(1989年9月15日発行)には、「番屋はモノではない」という見出しで、「壊れかけた建物を直す価値があるのか、という人もいます。」「解体して木材として売られた番屋もあります。」との記載が。
それと同時に、「番屋には、歴史、つまり人の心に関わる何かがぎっしり詰まっています。」とも書かれていました。

元々あるものを「残す」ということも、簡単なことではないと改めて感じます。

地元の歴史を学んでみると、地元のことだけでなく日本全体の歴史につながっていることがわかります。身近な出来事や普段当たり前に思っていることも、実は先人たちの歩んできた歴史につながっているのかもしれませんね。


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