赤水窯のこと
今更ながらですが、当窯の成り立ちなどを書いておこうと思います。
(真っ先に書いておくべきでした!)
こちらは昨年、赤水窯がクラウドファンディングに挑戦した際に書き記した長い文章を短くまとめたものです。(写真を少し追加しました)
それでも少々長くなりますが、ご興味あればご一読ください!
佐賀県唐津市にある私たちの工房は、この集落の地名「赤水」の名を冠し、親子二代の陶芸作家として陶器づくりをしています。
一階が展示ギャラリーになっており、小さいながらもこの建物の中で制作/焼成/販売まで全てを行っています。
1976年に開業した当時は、陶器づくりだけではなく喫茶店 加らつ屋 の営業もしていました。カップやお皿などの手作りの器でお茶・軽食をご提供し、そういった器を店内で販売していました。
それから16年後に喫茶店を閉じ、陶器制作を専業とする「窯元」となり現在に至ります。
現在、店内は喫茶店時代のカウンターなどをそのまま展示台として活用し、当時の雰囲気を残しています。
当窯の商品にカップ類などのティーウェアが多いのもこういった理由から。
赤水窯の器は、現代の日常の空間での利用をイメージしたものがほとんど。唐津焼の伝統技法以外のものも取り入れ、自由にアレンジしながらの制作が当窯のスタイルとなっています。
明治中期~大正あたりまで、茶店を営んでいた
あらためてこの窯の成り立ちを思い返していたときふと頭に浮かんだのが、「ウチは茶店もしよったけんね(していたからね)」という父の言葉。
この古びた石柱は私が子供のころから立っており、何なのだろう?と特に疑問に思ったこともありませんでした。
しかし今回赤水窯のなりたちを両親へ確認していくなかで、これは祖父の叔父にあたる人が寄贈したものだとわかりました。この先の石段を登って行った先には、先の記事にも書きましたが今はすっかり廃屋となってしまっている 赤水観音堂があります。
聞けばこの赤水窯の場所は江戸時代に整備された街道付近に位置していて、当窯の前を通る道は唐津を横切る旅人にとってメインストリートでした。上記の石柱は街道を歩く人々が、観音堂に気づき参拝してもらいやすいようにと立てられたものだったのです。
今は他に幾つもの便利な道路がありますが、当時の旅人たちの長い旅路の苦労が想像できます。
そういった旅人達を相手に、当時の熊本家は農業の傍らに茶店を営んでいたらしいのです。今は亡き大正生まれの祖父はその当時のことを覚えており「店で売っている飴をくすねて食べた」「 けえらん(唐津 浜玉町の名菓)も売っていた」「お茶や菓子だけでなく、鯉料理なんかも出していた」と語っていたそうです。
祖父はそんな茶店だった当時の熊本家の建物を、亡くなる少し前に厚紙で工作し残していました。(小学校教員を経て退職後画家になった祖父は、手仕事全般が得意でした)
もうひとつ資料が見つかりました。明治中期、唐津の人々のささやかなレジャーだった 鏡山登山を撮影したもの。
赤い矢印の家が熊本家。
茶店自体の写真ではありませんが、登山者が下った先がひと息つける茶店であってもおかしくはなさそうな雰囲気がありますね。
曽祖父の代に茶店をしていた熊本家が、父の代の喫茶店を経て、今は日常にお茶を楽しむカップなどの陶器づくりを生業にしているということは、一本のつながりがあるようです。
時代の変化に伴い、この土地での我が家の姿も変わり続けてきましたが、これからも日常を豊かにする陶器を多くの皆様にご提案し続けていきたいとの思いです。
※自己観察のため綴っていく雑器ではありますが、もし少しでも心に残るものがありましたら、このnoteの一番下にある♡ハートボタンを押してもらえると嬉しいです。
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