昨今、情報量が多すぎる故の「量産化」現状があらゆるジャンルで起きている気がします。 反体制を掲げる人間が同じで、なおかつ多数派になってしまえば本末転倒。 本来、変えるものじゃなくて、ぶっ壊すもの。 ぶっちゃげ正論なんてどうでもよくて、いいか悪いか、好きか嫌いか。ただそれだけ。 正しさを求めるが故に、夢中になりすぎてしまって気づかないものなのかもしれません。
2024年、8月20日。 2年前の今日から、1日も欠かさずあの夏の答えを探し続けていますが、全くもって近づけてません。 それどころか探せば探すほど、遠ざかっているような気がします。 正直な話、自ら幕を引こうとした日も少なくありません。 毎日毎日どうあるべきだったか無限に考え続けてるけど、そもそもすべてに答えや意味など存在するのか?そんな疑問が自然に湧き出てきました。 1日たりとも忘れることの出来ない後悔や苦しみは、探し続けるという行為そのものに必要性が無ければ、絶対
夏。8月。お盆。 正直、迷いましたが九州に帰って来ました。 相変わらずの暑さと世界情勢。天気もおかしい。 ただ1つだけあの日と違うのは、痛みを感じて「恐怖」という限度を知った。 悲しみと苦しみの先には、いつの日か何かに繋がればいいなと思ってます。
夢を見た。 楽しく続く、悲しい夢。
「豊かさ」とは? 答えは人口の数だけ星の数ほどあるはずです。 要は自然と湧き出たものか、他人や社会に作られたものか。似て非なるものです。 自由であることは重要だけど、自由を履き違えて勘違いしたら間違える。 太古から長い時間をかけて突き詰められてきたものに対して、根底からすべて引っくり返そうとするのは、無理があるとしか思えない。 好きなように楽しく生きたいだけ。 大事なのは「正しさ」ではなく「道理」です。
前回、価値観は廻るということを書いたけど、ファッションや音楽などのトレンドは一定の周期で廻ります。 基本的に全てのものは「温故知新」という名の再構築に成り立っているけど、ムーブメントになって乱立すると「その先」が生まれない。いったん終焉を迎えます。 どのジャンルもやり尽くしてしまうと、枯渇する。表面だけじゃなく原理まで深掘りしないと、後追いの人はなかなか難しい。何にでも言える気がします。 価値観は廻るとは言ったものの、世の中全体が懐古主義に陥ってしまった場合、黄色信号が
昨今の日本は、必要以上に「正しさ」を求める窮屈な国になってきてます。 「資本主義」の悪いところがダイレクトに出てきている。なおかつ、コロナや不景気のストレスが他人を許容出来なくなっている根源になっている気がします。 昨今の行き過ぎた民主主義は「強くなる」ということを突き詰めていった場合、確実に逆行していっている。自ら望んで多くを手放していっているようにしか見えません。 時代が変われば元に戻らないけど、価値観は回る。何事も一点に偏りすぎると、反動で反対側に戻る。これは歴史
常に息苦しい1年でした。 これも、まだまだ弱かった自分への試練じゃないかと、今は受け入れてます。 パテックの王者として、強さと風格を改めて思い知らされた、貴重な1年でした。 時計はスイス、武士は九州に限ります。(田舎者!) それだけでも、意味のある1年でした。
「心」を「亡」くすと書いて、「忙しい」と読む と、はぐれた友人が言ってたことをふと思い出しました。 忙しすぎると、すっかり心を亡くてしまう。 ゆっくり休んで、自分の心を取り戻す。そういう期間が大事だと思っています。 2023年を振り返って。。。 圧迫される不快感に包まれて、不快感が増すほどに皮肉にも成長していく。 分身との自問自答の繰り返し。 いまの時代は境界線が無いからこそ、自分自身で法則性を見つけて、生き延びるしか無い。 ふとした体験から点が線に繋がって、
進めば進むほど、漠然の正体が一瞬だけでも分かった気がする。 冬はそういう季節なのかもしれません。
この曲が、時空を越えて『今』にリリースされることに、因縁を感じてしまいます。
10月24日。赤口(しゃっこう)の正午頃。 あの日の望みの続きの時を刻みます。 即ち、自分に言い訳をして時計を買いました。 欲深き。修行が足りませんな。
夕方急に思いついて、終電で東京まで来てしまいました。 サウナ北欧に泊まってみました。 もはやボンヤリとモヤがかかって思い出せないことも少なくないけど、漠然と身体に染み付いてるものがふと繋がる瞬間があります。 ここに来て、急激に何かが弾け飛んでいる。 それが今の感想です。
今年は、いつでも去年の1日遅れでやってきます。 曜日のフラッシュバック、日にちのフラッシュバック。1日おきにやってくるフラッシュバックを毎日春から秋まで苦しみも気づきも味わいながら過ごしました。 そんな毎日も明日以降は想像もつきません。
武士道と云うは死ぬ事と見付けたり•••肥前鍋島藩に伝わる「葉隠」にある一文です。 色々な解釈がありますが、一か八かの究極の二つの選択を迫られた時は、死ぬ覚悟で前進したほうが結果的に生に繋がるということかと思います。 400年も昔の書らしいけど、九州の武士らしい考え方です。
皮肉にも目の前があるので、なんとか立ち続けることが出来ています。 逃げずにいたから、立っていることが出来ている。正確には長く冷たい道の上で、逃げたくても逃げられない。 振り返ると、現象に対して波が高すぎたのかもしれない。単に実力不足です。 死ぬほどもがいた1年を経て、少しだけでもボトムが太くなったと自負してます。