宮沢賢治 「春と修羅」序

 最近、Kindleを始めた。三ヶ月99円でKindle Unlimitedを体験できるので、特に迷うことも考えることもなく、ポチったのだ。ちょうど最近、長編ミステリィしか囓っていない似非本好きであることに嫌気が差していたので、これを機に、純文学のベクトルも嗜んでいきたいと思う。
 早速読んだのが宮沢賢治の詩集「春と修羅」だった。本屋でたまたま目にしたので、「Kindleで読むか」と思い立った。


わたくしという現象は 仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに せわしなく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失われ)
これらは二十二箇月の 過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅しみんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつづけられた かげとひかりのひとくさりずつ
そのとおりの心象スケッチです
 
これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵を食べ または空気や塩水を呼吸しながら 
それぞれ新鮮な本体論もかんがえましょうが
それらも畢竟こころのひとつの風物です
ただたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとおりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとおりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるように
みんながおのおののなかのすべてですから)
けれどもこれらの新生代沖積世の 巨大に明るい集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらのことばが
わずかその一点にも均しい明暗のうちに
(あるいは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や質を変じ
しかもわたくしも印刷者も それを変らないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます
けだしわれわれがわれわれの感官や風景や人物をかんずるように
そしてただ共通に感ずるだけであるように
記録や歴史 あるいは地史というものも
それのいろいろの論料といっしょに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじているのに過ぎません
おおらくこれから二千年もたったころは
それ相当のちがった地質学が流用され
相当した証拠もまた次々過去から現出し
みんなは二千年ぐらい前には青ぞらいっぱいの無色な孔雀がいたとおもい
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから すてきな化石を発掘したり
あるいは白亜紀砂岩の層面に 透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません
 
すべてこれらの命題は 心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます
 
大正十三年一月廿日 宮沢賢治

 「春と修羅」は、宮沢賢治が生前に唯一作詩した詩集である。口語的な文体が特徴で、序の部分だけ見ても、形式に囚われない自由でゆったりとした雰囲気である。というか、そもそも制約のあるものは詩とは言わない。文語詩・口語詩や叙情詩・叙事詩・叙景詩といった分類は、毎度人間が得意とする勝手なジャンル分けであって、どれかに収めなければならない、というわけではない。実際、この春と修羅は、叙情詩、叙事詩、叙景詩のいずれでもない。
 僕はてっきり、大正時代なのだからもっとお堅い作品なのだろうと思っていたが、予想よりもずっと現代の言葉感覚に近く、読みやすいと思った。口語体の影響だろうか?
 
 冒頭「わたくしという現象~」とは、自分という存在が、照影のように明滅を繰り返す「現象」である、ということを述べている。とても東洋的な考えだと感じる。「あらゆる透明な幽霊の複合体」という表現も、「透明」「幽霊」という語から分かるとおり、自我がとても薄いものであることを示唆している。
 以降に出てくる「これら」は、春と修羅に収められている詩集である。
 「本体論」という語を、僕は意味を通して詳しくは知っていなかったので調べてみた。「存在論」とほぼほぼ同義とみていいらしい。つまり、この春と修羅を読んだ人は、「自分が存在すること」とはどういうことか? と考えるだろうが、その心の変位も含めて、スケッチされる心象のひとつのパターンであると述べている。なんか、それなりにパンチの効いた一文である。

 それ以降の流れについて、ざっくりと自分の考えを連ねておく(ここからが難解なのである)。
 「記録」されたけしきは、そのまま事実であり、ある程度多くの人に共通して認識されるという普遍性を持っている。しかし「ことば」を通じて受け継がれてきた物事は、時間の経過とともに(この間の十億年を「修羅」と表現している)変容していく曖昧なものであり、私たちでさえその変容に気づかないということも、皮肉にも言葉の曖昧さを後押ししている。それは「記録」ではなく「感ずる」ということである。
 私たちは記録したものをそのまま受容するのではなく、記録を「感ずる」ことでしか認識できない。それゆえ、歴史というものも、原因→結果という時間の流れにかこつけて感ずるもので、(悪く言うと誤った捉え方により)「青空いっぱいの無色な孔雀」などといった事実とは遠くかけ離れている(と僕は認識している)現象にありついてしまうのである。
 そのような現象も、心象や一方通行の時間軸ゆえの特徴として「記録」されるものなのだ。
 
 




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