宮沢賢治 春と修羅「恋と病熱」
この次に一個、大きい詩があり、そっちはまた新た寝て紹介したいので、今回は一個だけ。宮沢賢治はかなり病み散らかしているのか、前回の詩コバルト山地から二ヶ月も間があいているし、しかもこの見るからに負電荷を帯びている分かりやすいタイトル。感受性が豊かな人は、その感受性で唯一無二のものを書ける代わりに、あらゆる物事に対して繊細で、気を病みやすいのかもしれない。僕はかなり繊細とは対極(該当する日本語が思いつかない。大胆?ではないし……)な性格だから、あまりピンとこない。だからこうして詩に触れていこう、というわけではあるが。
きょうはぼくのたましいは疾み
烏さえ正視ができない
あいつはちょうどいまごろから
つめたい青銅(ブロンズ)の病室で
透明薔薇の火に燃される
ほんとうに けれども妹よ
きょうはぼくもあんまりひどいから
やなぎの花もとらない
二二・三・二〇
おそらくこの時期には、宮沢賢治の妹、宮沢トシの病状は悪かっただろうと推測される。ブロンズの病室で寝ているのは彼女で、宮沢賢治は、今日はあまりにも心が荒んでいるから、見舞いには行けない、ということだろうか。
「やなぎの花をとる」というのが何なのか、昔は見舞いにそういう慣習があったのか、はたまた宮沢兄妹だけの個人的な習慣なのだろうか。
一応、柳の花の花言葉を調べてみると、日本では「自由」、海外では「死者への嘆き」「憂鬱」「病気からの回復」とあり、宮沢賢治が何かを示唆しているのではないかと感じさせる。まあ、置いておこう。
この詩に関して色々と調べてみると、「当時宮沢賢治には恋人がいた」という情報が書いてあるサイトがあった。嘘か真か定かではないが、もしそうだとすると、この詩は「自分は恋人といるのに、妹は冷たい病室に一人寝込んでいる、そして見舞いにも行けない」という罪悪感からくる気の病みを書いていることになる。彼の責任感の強さが、こうして心象スケッチにはありありと現れている。
調べていて気づいたのだが、米津玄師が同じ「恋と病熱」というタイトルで曲を出している。おそらくはこの詩からインスパイアされて作曲したのか? と思う。米津玄師はあまり聞いたことがなかったので、良い機会とお思い視聴した。
歌詞を載せたいが、著作権等が怖いので控える。しかし、現実と恋との間の葛藤、矛盾する二つの出来事の狭間で揺らぎ、微熱が纏わり付いたような感情が忠実に描かれていて、この詩とリンクするところがあると思う。「恋」の比重が米津玄師の方がやや大きく、よりフォーカスされている。
とにかく、爽やかな曲調に、一二年前とは思えない鮮やかで滑らかなMVも合わさり、非常に良い曲だと思った。是非聞いてみて欲しい。