宮沢賢治 春と修羅 「日輪と太市」「コバルト山地」

日は今日は小さな天の銀盤で
雲がその面を
どんどん侵しかけている
吹雪も光りだしたので
太市は毛布の赤いズボンをはいた
二二・一・九

日輪と太市

コバルト山地の氷霧のなかで
あやしい朝の火が燃えています
毛無森のきり跡あたりの見当です
たしかにせいしんてきの白い火が
水より強くどしどしどしどし燃えています
二二・一・二二

コバルト山地

 日輪とは、太陽の周りに、円状にできる虹のことである。日輪は僕も見たことがあって、(趣味でよく登山をしていたのだが)山の山頂で、頭上に日輪が出ていた。登頂した達成感と開放感もあって、とても幻想的だったのを覚えている。しかし、残念ながら日輪は天気が下り坂になる予兆として知られており、あの時の自分は、日輪に見とれている暇はなく、「天気が崩れるからはやく下山しなくちゃ!」と焦らなければいけなかったのである(記憶は確かではないが、その時は終始よい天気だった気がする)。
 さて、太市とはおそらく子供の名前だろう。僕はこのたった五行の文章から、「ちょっとぽっちゃりとした、目の細い小学校高学年の男の子」という想像をした。

 つづいて、コバルト山地。調べたところ、「コバルト山地」とは、北上山地を指しているようだ。
 「屈折率」にもあったが、「水よりも~」という表現がやたらと多い。それはつまり、宮沢賢治が水を強さ(あるいは明るさ)の基準としているということだろうが、水を明るさとして引き合いに出すのは我々の感覚からして少し違和感がある。何か、宮沢賢治が「水」に対して特別な感情を抱いているのか、今後の作品から読み解いていきたい。


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