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劇団KEYBOARD「だめだこりゃの王国」雑感 ー持つ者と持たざる者ー

 年明けてから演劇は観に行っていなかった。

 だから、この間下北沢演劇祭に行って観たのが今年の舞台の観初め(?)になった。自分に必要な作品には出会うようにできているとは言うものの、なかなか出会えない中で、やっぱりそうなのだなという出会いがこの作品だった。今回見たのは、

劇団KEYBOARD「だめだこりゃの王国」

この「作品には自然に出合う説」は、本当に不思議だけど、事実なんだよなぁ…この作品を見に行こうと思ったのも、何となくこれを見た方がいいと思ったからだし、チラシにも

好きなものだけ見て、
好きなものだけに囲まれたい。
だから私は、長い長い眠りにつくことにした。

これしか書いてないしね。まるで情報がない中でこうやって作品に出合うっていうのは、一種の奇跡に近い気がする。

※これから書くのは妄言も多々ある個人的な解釈で、解説ではないことをご了承ください。

お話の構成

 この作品は主人公の石崎珠子がみる夢(彼女の理想の世界)と現実が交互に繰り返されながら進んでいく。何らかの理由で自宅に引きこもって専ら寝ている珠子の見る夢とそこから現実に引き戻されることにおける恐怖や悲しみ、怒りによって珠子という人間がどのような人生を生きてきたのか、どういう人間なのかということが、うすらぼんやり見えてくるという手法をとっている(この手法をひそかに川上弘美方式と呼んでいる)。

夢と現実

 夢の世界で珠子は彼氏のまさふみ(現実では別れている)や、友人のみのり、大学時代の先輩のわかなどと楽しく過ごしていた。仕事の保険営業では、営業に行った先から契約を根こそぎとってくる仕事の出来る社員であり、先輩のないとうが最もかわいがっている後輩だ。まさに珠子の思い通りの世界が展開されている。象徴的なのはこの夢の世界に同居しているはずの家族は一人として出てこない。

 現実ではどうかというと、部屋から一歩も出ないでベッドの中で寝ている引きこもりであり、母の由美子は口うるさく珠子をだらしがないと批判する。大学生の弟俊太は、無職である姉を蔑む。父親はというとこの家庭では影が薄いらしく、終盤まで出てこない。

 このように苦しい現実に対しての反動かのような幸せな夢を見るために珠子はせっせと睡眠に励むのだ。夢の中ではこれが夢であるという旨の発言をする人物もおり、珠子もうすうすこの理想的な世界が夢であることに気が付いているようだった。

 文芸としてこの夢というものをさかのぼってみると、このように夢の中はなんでもありの理想郷という夢観が顕れ始めたのは、おおよそ江戸の初期から中期にかけてのことらしい。もっと昔かと思いきや、いわゆる「夢落ち」と呼ばれる手法が一般化しだしたのもこの時期だ。

 特に江戸中期の笑いを主とした絵本である黄表紙には、このようなものを多く見ることができる。以下に挙げるのは夢の話ではないが、唐来参和(とうらいさんな)という戯作者が書いた黄表紙『莫切自根金生木(きるなのねからかねのなるき)』である。刊行は天明5年(1785)に蔦屋から。画像はその最終丁である。(ちなみに↑作品名は、前から読んでも後ろから読んでも同じ回文になっている。)

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 画像は国立国会図書館デジタルコレクションから。

 この話は金がありすぎて困った大金持ちが、あの手この手で貧乏になろうとするが結局最終的には上のような有様になってしまうという話。これは金持ちの家なのだが、無数の箱が敷き詰められて足の踏み場もないという感じだ。手前の箱に「万両」と書いてあるのが見えるだろうか。そう、これは「千両箱」ならぬ「万両箱」。この部屋に敷き詰められている箱すべて小判(お金)であるというラストなのだ。

 一度でいいからこんな体験をしてみたい…この黄表紙という文芸は江戸庶民の生活や風俗を見るうえでも面白い資料なのだが、実際こんなに金が余って困っている庶民がいたかというと…

いるわけねぇ

 つまり現実とは全く反対のことを描くことで、逆に辛い現実が浮き彫りになっていくという手法なのだ。このような作品の作り方はこの時代よくあることだったようだ。「金がありすぎて困る」は「金がなさ過ぎて困っている」し、「貧乏になりたい」は「金持ちになりたい」だった。そういう庶民の無限の欲求を皮肉交じりに面白おかしく描いているのだ。夢という趣向もその欲求に一役買っていたというわけ。

 少し道がそれたが、再び演劇の話題へとつながっていくことができそうだ。珠子の見る夢もまたしかり、現実では夢とは真反対のことが起きていることを彼女の理想郷はその世界として現実を雄弁に語っていた。

 現在珠子は彼氏と別れており、友人も近くにはいない(正確には結婚して海外にいる)。仕事は先輩に目をかけられてはいるのに結果が出せないような状況だったのだろう。こういった人たちが珠子のもとに集まって鍋パをするなどまずありえない、それが珠子の現実であったと考えてよいだろう。

幸せな人々

 この世に絶望している珠子とは対照的に、珠子の周りでは幸せなことばかり起きていた。姉の花子が結婚し、夫とこの家で暮らすことになったのだ。なんと妊娠までしているというおまけつきで。

 母は初孫の誕生に浮き立ち、弟の俊太はこれから就職で、前途洋々なのだろう。父親は娘夫婦の同居により珠子の隣の部屋に移動させられていたが、大好きなドリフのDVDをずっと見ているので、とりあえず幸せなのだろう。珠子にとってこれらはすべて嫌なことでしかなかった。

 自分が精神的に落ち込んでいたり、しんどい時に、人の幸せというものは容赦なく自分から生きる気力を削いでいく。自分はできていない結婚をして、ご機嫌な姉と、だれもが好青年と思う態度のその夫。それに浮足立つ家族、相談したい友人は、すでに幸せな結婚をしており近くにいない。大好きだった先輩は仕事で成功している。自分だけが家に引きこもる状況で、だれにも相談することもできずに。「みんなの幸せ」は珠子をどんどん追い詰めていく。

 そうなのだ、幸せは強者であり、そうでない弱者をひたすら追い詰める。幸せを持っているものは持たざる者に何の疑いもなく「なんでそんな暗い顔をしているの?明るく生きようよ!」「考え方次第で幸せになれる」とか学級目標のような見え透いたことを言ってくる。優しさを振りまいてくる。珠子がこの手のやさしさを「気持ち悪い」と言うのは、彼らは珠子をみているようで、実際は何も見ていないことに気付いているからに違いない。

 暗い顔をしているから不幸なのではない。不幸だから暗い顔をしているのだ。笑っても辛いだけだ。幸せに間違いがなければないほど、幸せはそれを持たざる者を一方的に追い詰めるのだ。他人の幸せは、躓いた人間の生きる力を奪う。そして幸せな人間は不幸な人間に無関心になっていき、離れていく。このような皆の幸せの押し売りが珠子に睡眠薬を大量服用させ、昏睡状態にさせた。彼女の逃げ場はもう夢の中にしかなかったのだ。

珠子という人間

 珠子はどんな子供だったのだろうか、入院中の母や姉の話などから分かるのは、この「珠子」という名前が、意識的か無意識的かは別にして傷のない玉である完璧を意図してつけられたものだということだ。作品中に「玉に瑕」という言葉が出てくる。幼いころの珠子にだれかが言ったことだと記憶しているが、ここから察するに学生時代までの珠子は、完璧とはいかないまでも満足な人生を送ってきたし、自分の能力に疑問も抱かなかった。また、自分はそうでなくてはならないと思ってきたのではないだろうか。

 しかし、就職をして思うようにいかないことが重なり、自分ができない人間であると気が付いてしまった。自分についていた無数の瑕に気が付いてしまった。心のよりどころは彼氏だったが、まさふみの気持ちは、もう違う女性のもとに行っていた。恋人に裏切られ、最後の砦が壊されたことで珠子は睡眠薬をのまなければいけない精神状態になり、引きこもりになったのではないかと考えた。ただ、彼氏と別れた時系列が良くわからず、思い出せなかったので、これは妄言かもしれない。少なくとも珠子が引きこもり眠り続ける原因は、過酷な職場環境と失恋に会ったと思われる。

夢に干渉するもの

 この作品は、夢と現実の転換時には必ずなんらかのドリフの歌がかかる。タイトルもだめだこりゃとあるし、脚本の人がドリフ好きなのかなと思ってみていたが、このドリフの存在は大きい。なぜなら、夢の中の珠子に唯一干渉可能だったものだからだ。このドリフの音声は隣の部屋でドリフのDVDを大音量で見ている父親の影響であるが、このドリフだけは珠子の夢の中に絶大な影響力を及ぼしている。突然照明がピンクになり彼氏が抱き着いてくるラブシーンには、加トちゃんの「ちょっとだけよ」のBGMがかかっていたし(これは笑った)、昏睡状態の彼女を現実に引き戻したのも父親のうたうドリフの歌だった。

夢の終わりと始まり 家族という呪縛

 昏睡状態で入院中の珠子は依然として夢を見ていたが、その理想郷は崩れ始めていた。夢は都合のいい世界を提供していたが、それはよい夢の話。夢は時として自分の操作がきかない悪い夢を見せる。夢はついに、彼氏がわかに思いを寄せていたこと、自分とは成り行きで付き合っていたという過去のエピソードを珠子に見せる。ここは作品として夢の利用の仕方が上手だなぁと感心してしまった。

 昏睡状態から覚めた珠子に家族や友人は安堵するが、夢の中があのような状況であることで、彼女の逃げ場はもはやなくなってしまった。珠子だって幸せになりたかった、でも今はなれなかった。だから逃げるしかなかった。珠子を殺したのは「幸せ」と「愛」だった。幸せと愛が珠子の逃げ道をすべて阻んだことで、珠子は死ぬしかなくなった。ドリフで長さんが最後に「だめだこりゃ」といういうように、彼女がラストシーンで自ら永遠の眠りにつこうとした気持ちを考えると辛くなってしまう。

 象徴的なのは、そんな彼女の周りの人間の視線だ。誰一人珠子をみているようで見ていない。見ていたのは、夢の中の住人だけだ。弟の最後のセリフ「あ、死んでる」は、彼らの無関心の象徴だろう。

 もちろん母親や父親が珠子を愛していなかったといえばウソになるし、それこそ職場の先輩のないとうも自分なりに珠子を大切にしていた。だが、それは珠子には届かなかった。誰一人として珠子が死ぬと思っていなかった。彼女は家族だから、同僚だから、友人だから、そういう関係性の中で幸せを持つ人間は、持たざる者も幸せにしようとする。そうしたらその人が自殺するなどということは考えつくわけがない。

 このように子作品が見えたのは、その描き方が珠子の視点に立って描かれていたからかも。もしかしたら弟の目線や母の目線があったらもう少し違っていたのかも。

 結局彼女の心を見据えてあげられる人は誰もいなかった。それは、一連の出来事で人間不信になった珠子にも、その周りの人間どちらにも原因があったのだろう。

まとめ

 このように考えてみて、この作品が今の自分にとって必要だと感じたのは、珠子が生きていくということに感じた絶望と疑問だった。生きるにはよりどころになるものや、逃げる場所が必要だ。だけど、一方的な幸せや愛ってやつは、それは弱い奴のやることだと宣う。自分も幸せじゃないときは、ひやひやしていたくせに。幸せを見るのが負担な自分にはかなり刺さった作品だった。自分もそういう幸せを押し売っていたことがあったから。やさしさ、思いやり、幸福、愛の功罪についての作品は自分の中で大切にしたい作品に入りやすいみたい。

 珠子役の冨士枝鈴花さんは初めて見たけれど、迫真の演技だった。ベッドの上でこぼす彼女の涙にはほんとに辛い気持ちにさせられたし、辛いシーンでいうのもなんだけどとても美しかった。あと、この作品を見ることに決めたのは何となくっていってたけど、辻響平さんが出演していたからっていうのが大きかったからかもしれない。

 一気に書いてしまったので、一応アップしますがちょこちょこ修正するかも。読みにくいところもありそうだし。推敲してからアップしろってか?そうだね。君の言うことが世界一正しいよ。でも僕は正しくなくていい。

チョコ棒を買うのに使わせてもらいます('ω')