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ゆうめい「姿」雑感③ 親父のハッピーサマーウェディング 編

 公演がおわってから結構立つのにいまだに感想を書いている自分。
 最近演劇を見るようになったので知らなかったのですが、映画をみたとか本を読んだとかとまた違って演劇には公演中っていう旬感がすごく強い気がしています。だからこの感想も回転レーンを何周もしたネタの乾いた寿司のような記事ではありますが、まぁ書いていきましょう。

 今回で最後にするつもりですが、やはりこのことは書かなくてはいけないと思いました。題名の通り60を過ぎたジジイが躍るハッピーサマーウェディングについてです。この作品を見ずにこれを読んでる方には狂気の沙汰としか思えない演出ですが、僕はあれを見て泣いてしまいました。また、それと同時にこの作品でいうところの父の「姿」についてもちょっと書いていきたいと思います。あと、「ちち」って打つと「乳」が一番最初に変換される学習機能の性根を今から鍛え直していきたいと思います。

父の過去

 そもそもこの作品を見た時に感じたのは、母親に比べて父親のバックボーンとなる情報があまりにも少ないということでした。父の過去が語られるときには必ず母やその家族が何らかの形でかかわっていましたし、どちらかというと、母の人生の一部として父が関わっていたような感じすら受けました。

 父は常に母を追い求めていた。大学の頃に出会ってからずっとです。この作品での父のバックボーンとは、おそらく子が見ている父親像とそこまで相違がないものなのではないのかと思います。それよりも今父が何をしているのか、何を考えているのかということが優先されていたように思います。母が「過去」ならばその対比として父は「今」を担当していたのかもしれません。そして二人で「未来」に行くのでしょう。どういう道であるかは別として。

 キャベ玉とつんく

 父が母をのことを思っていることは、よくわかります。ただしそれは、前回も書きましたが一方的なエゴです。自分のことを見てほしいというエゴです。それがよくわかるのが、母親が好きになったものに嫉妬するという行為です。父がつくるキャベ玉(キャベツの卵炒め?)はかつて母の大好物でしたが、母の気持ちが父から離れるにつれてキャベ玉は望まれてないメニューになっていきます。その代わりに母親が夢中になったのはつんくとハロプロでした。とくにつんくに関しては同じ男だからか、露骨に嫉妬の情を見せています。声が出なくなったこと喜んだというセリフがあったことを友人に言うと「器がちいせぇなぁ」と笑っていました。友人は女性だったし、言っていることももっともなのですが、自分にはこの父の気持ちが少しわかるような気がしました。

 考えてみると、父が花壇の花に水をやらずに枯らしたのもそのためだったのかもしれません。自分の方を見てほしいというエゴは、母の反感を買うという形になりました。とはいえ、父親は反感を持たれたいわけではなく愛されたいわけで、母の怒りに関しては、見て見ぬふりをしたり、うやむやにしてしまうという態度が目立ちました。

父の払った犠牲 

 子が母親につねられて泣いていても、父は寝たふりをしていましたし、母の怒りに真っ向から対立することもなく、言い争いになってもどちらかというとその言い訳をするようでした。そういう態度が逆に母をいら立たせてもいたように思います。この父親は母親に気に入られようと必死になってなりふり構わなかった。時には息子も犠牲にしましたし、ギャンブル狂いの母親の父にお金を渡して、母に会いに来てほしいというふうに人を試すようなことをしました。まぁギャンブル狂いですからお金をもらったら使っちゃうのはおそらくわかってて試したのでしょう。

 それもこれもすべては母に自分を愛してほしいという心の「姿」であったのかもしれません。彼は母親の興味を引くためにあらゆるものを犠牲にしていく正真正銘のエゴイストですが、エゴイストはエゴイストであるがゆえに自分をも犠牲にしていきました。その象徴がこの作品のクライマックスである父親がハッピーサマーウェディングを踊ることだったのでしょう。こう見てみると、学生のころからどこかモジモジした態度で、それでいて計画や計算高い父がどのような家庭で育ったのかが、なんとなく透けて見えてくるようでもありますね。父の家というのは少なくとも愛情が詰まった温かい家庭ではなかったように思いますし、両親との関係もあまりよくないというより、父の方から敬遠していたのではないでしょうか。想像ですが。

ハッピーサマーウェディング

 母から離婚届を受け取って判子をおして、いざ母が出ていくときになると、母と子はまた口論を始めます。それを遮るように父は、年代物のVAIOを出してキーを叩くと、流れる曲がモー娘。のハッピーサマーウェディングという演出なのですが、初めはなにがおこったのか、もうやけくそなのかとおもいました。だってそうでしょう。定年すぎたジジイが離婚するという場面で、大声で曲名とアーティスト名を叫んだあと「踊ります!」って。しかも踊りもどヘタクソっていうか、そのフリはあってんのかっていうレベル。やばいやばいやばいこれはもう・・・と思った瞬間舞台の奥から若いころの父の姿が見え始めます。若いころの母と子は父がキレッキレのハッピーサマーウェディングを踊るのを見て笑いながら一緒に踊っていたのです。

 父はこのダンスをどんな気持ちで覚えたのでしょうか。大嫌いなつんくがプロデュースする母が大好きなアイドルの曲のダンスを。しかもその歌詞の内容は、両親への感謝が嫌というほど書かれたものを。あのVAIOが当時最新式のパソコンだった時代に、パソコンの小さい画面を何度も見返しながら覚えたのでしょう。自身のエゴから愛を求めてほぼすべてを犠牲にしてきた父が最後にたどり着いた生贄は自分でした。しかし、それだけの犠牲を払っても状況は一向に変わらなかったのです。ただし、このエゴが後にこの崩壊した家族の未来につながっていったこともまた事実です。母は母で父のダンスに昔を思い出したりしたのでしょう。

 僕は「家族だから––」「血が繋がっているから––」という言葉が大嫌いです。現にこの作品では家族だから崩壊したのであり、血が繋がっているにもかかわらず他人になります。家族が、血縁がという言葉は人を人としてではなく自分と同質のものであるというふうに錯覚させるものである気がしています。考え方も、感じ方も、笑い顔もみんなおんなじなサザエさんの歌みたいな気持ち悪い同調圧力を感じます。この作品の家族での、子もふくめて蔓延ったエゴの形はまさにこの同調圧力のなせる業なのではないでしょうか。それが他人になったことでどうなったのか、それはエピローグを見ればわかります。

 相手を一人の人間としてとらえる彼らの「姿」もまたそこにあったからです。

PS
父 父 父…よし、なおった!

チョコ棒を買うのに使わせてもらいます('ω')