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Light Years(181) : Flash Back

 ミチルに、名誉毀損や誹謗中傷で訴える代わりに聞かされた、18分59秒の音楽。それは、ミチルが予想していたよりも大きなダメージを、前衛的なデザインの石のベンチに座る宮本教授に与えたようだった。
 宮本教授は演奏が終わってなお、およそ度し難いものを聴かされたという表情で、息を荒くして肩で呼吸していた。震える手でイヤホンを外すと、弱々しい声でミチルに訊ねた。
「なっ、何を聴かせたんだ、私に…これは音楽なのか」
 目をかっと見開いて訊ねる教授に、ミチルはごく真面目な顔で答えた。
「もちろん。これは音楽です。1967年、武満徹作曲の"November Steps"という曲です」
 ノーヴェンバー・ステップス。尺八と琵琶という異色の楽器のためのオーケストラ作品で、一般的には前衛音楽、現代音楽の大家として知られる故人、武満徹の代表作だ。ニューヨーク・フィルハーモニーのレナード・バーンスタインの依頼で作曲され、盟友の小澤征爾によって演奏され、海外で絶賛された。
 ひと言で言ってしまえば前衛的、世間一般のイメージで言えば、"どうかしている"楽曲である。メロディーやハーモニー等が用いられる、一般的な『調性音楽』に対して、『無調音楽』というジャンルも存在するが、それともまた一線を画している。琵琶と尺八の掛け合いと、たっぷり含まれた静寂が、聴く者によっては恐怖と不快感をも与える。
「こっ、こんな…こんな、人を不快にさせるだけの…こんな音が、音楽だというのか」
 宮本教授は、ほとんど抗議する目でミチルを見た。なんてものを聴かせるんだ、と。だが、ミチルは微笑みでそれに応えた。
「最初は教授、私も全く同じ反応でした。こんな、調和も何もない音楽があってたまるか、と。けれど、今では私の好きな曲のひとつです」
 その発言に、横で同じ曲を聴いてみたクレハ、マーコ、ジュナの3人がギョッとしてミチルを見た。宮本教授も目をむいた。
「こんな音楽が、好きだって!?」
「不思議な事をおっしゃいますね、教授。音楽は、単なる粗密波に過ぎないのではありませんでしたか」
 ミチルの言葉は、強烈なブーメランとなって宮本教授に返ったようだった。一瞬茫然として、教授は返す言葉を失った。
 そう、教授の理屈で言うなら、ヴィヴァルディの"四季"だろうと、この"ノーヴェンバー・ステップス"だろうと、同じ気圧の粗密波に過ぎないはずだ。だが、教授はこれを"不快な音楽"だと受け止めてしまった。つまり、音楽が人の感情を左右すると、自身の体験で証明してしまったのだ。
「不快な音楽も、音楽のうちです。人には音楽の好き嫌いがある。つまり、教授。いまあなたは、ご自分の"嫌いな音楽"を定義された、という事です」
 それは、宮本教授にとって、とてつもない衝撃をもたらしたように見えた。口は半開きで、目の焦点が合っていない。
 音楽が本質的に無意味というのは、正しいかも知れない。しかし、意味があろうとなかろうと、大概の人間は好きな音楽と嫌いな音楽がある。クラシックなんか眠くて聴いていられない人もいれば、ロックなんてうるさいだけだ、という人もいる。そして、フュージョンはスーパーのBGMにしか聴こえない、という人も。
 そして、それを決定するのは、教授が言うように後天的な経験なのかも知れない。だが、いま教授は、おそらく初めて聴いたであろう楽曲に、明確な不快感を示した。これは、教授が"心"で判断したという、何よりの証左だった。
「教授。私の目には、あなたほど感情的な人間も、そうそういないように見受けられます」
「なっ、なに?」
「お気付きになりませんか。あなたは、私達に対して非常なまでに、感情的になっているという事を。音楽に心が介在している事を否定したいという、否定的な情熱に突き動かされているんです、あなたは。それが、"心"でなくて何だと説明なさいますか」
 その言葉が、宮本教授への実質的な、とどめの一撃となったようだった。行動主義心理学に基づいて、"自己"の否定に邁進してきた自分が、実は強烈な"自己の塊"だった事を、否応なく悟らされたのだ。教授はがっくりと肩を落とし、うなだれてしまった。
「私は今まで何をやってきたんだ」
 もはや、そこには自嘲すらなかった。ミチル達には、まるで一人の学生がうなだれているようにさえ見えた。

「宮本教授」
 それまで黙っていたマヤが、一歩進み出た。
「私達は、これでも科学技術高校の生徒です。だいぶ遠いですが、研究者であるあなたの後輩でもあります」
 その声色には、敵意や棘のようなものはなかった。ただ、純粋にひとりの同輩として語りかける声だった。
「私達とAI、最大の違いは何だと思いますか」
「…なに」
 教授は、一瞬何かを答えようとした。だが、その言葉を飲み込んでしまう。マヤは教授に代わり、静かに言った。
「"欲求"です」
 マヤの答えに、教授は無言だった。
「私達は、こういう曲を聴きたい、作りたいという、欲求に突き動かされて音楽を作ります。けれどAIにはそれがありません。少なくとも今の段階では、人間がそれを入力してやらなくてはならない。そしてAIは、人間が創ったフォーマットの範囲内でしか動く事はできないし、生成AIも人間が創った学習データが無い限り、文字列ひとつ創造することはできません。AIが自らの欲求に基づいて、何かを創造できるようになるまでは、少なくとも人間を超えたとは言えないんです。言い方を変えるなら、人工知能の背後には、生きた人間がいる、ということです。あなたがAIに命じて、私達の楽曲のクローンを生成したように」
 マヤは、テクノロジーが持つ宿命を淡々と述べた。テクノロジーの暴走などというが、厳密にはそんな事はあり得ない。テクノロジーは人間が創ったものであり、自分が創った物の挙動を予測できない人間がいるだけだ。
 
 宮本教授は、もう沈黙して動かなかった。ミチル達が思った以上に、自分自身にショックを受けているようだ。ここまで思い込みの強い人間がいるのか、とミチルは思った。
 もう、ゴーストライター騒動の真の黒幕としては、十分罰を受けただろう。このうえ罪を問うのは、ミチル達としても心苦しい。
「宮本教授。私からお願いしたいのは、ひとつだけです。心から音楽を創っている人間を、否定するような事はしないでください。テクノロジーが、人間の心を否定するために使われるなんて、私は寂しいことだと思います」
 ミチルは、百均のイヤホンを教授の傍らに静かに置いた。
「嫌いな音楽がわかったという事は、その逆だってあるかも知れません。好きな音楽が見つかるといいですね。それじゃ、私達は行きます。明日のライブがありますから」
 ミチルが小さく会釈すると、他のみんなもそれに倣った。無言で虚空を眺める宮本教授に背を向けて、5人は駅に向かって歩き出した。

「気の毒な事したかな」
 ミチルは、駅のホームでぽつりと言った。
「ふつうに、警察に突き出すべきだったかな」
「突き出したからって、取り合ってもらえたかはわからないわよ。少なくとも、もう私達にちょっかいを出す事はないでしょう」
 クレハにしては雑な意見だが、そのとおりだとミチルも思う。すると、ジュナがツッコミを入れてきた。
「お前、あの曲がいい曲だって本気で言ってんのか。タケ何とか、って人の」
「武満徹。映画音楽、前衛音楽の大家ね。さっき聴かせたのが、代表作と言われる"ノーヴェンバー・ステップス"」
「大家ね。あの、オドロオドロしいっていうのとも違う、何とも言えない寂静感みたいな、あれがいいってのか」
 ジュナとマーコは、揃って「信じられない」という顔を見せた。ミチルは苦笑する。
「音楽は広いよ。こんなの音楽じゃない、っていうのも、聴いてるうちに、ひょっとしたらいい音楽なのかも、って思える事がある」
「ほんとかね」
 まだ訝しんでいるジュナを、ミチルは過去の自分を見ているようで微笑ましく思った。ミチルも以前はあの曲が、ただ感情を逆撫でするだけの音の暴力に思えたものだ。
「さ、明日はいよいよライブだよ。私達は、私達の音楽をやろう」
 ミチルの言葉に、全員が表情を引き締めた。これまでの総決算だ。もう、ゴーストライター騒動からの一連の出来事も終わって、あとはザ・ライトイヤーズ自身が全てである。春の空気に、ミチルは高揚を覚えた。

 その日、ミチルは明日の集合を効率化するため、ジュナの自宅に泊まる事にした。朝はジュナの兄の流星に車を出してもらい、駅でマーコを拾ってクレハ宅に向かう予定である。
 少し陽が傾きかけた中を、ミチルとジュナは折登谷邸に向かって歩いていた。
「すごい日々だったな、ここまで」
 ギターケースをクレハ宅で降ろし、身軽になったジュナは少し肌寒そうだった。
「部員勧誘でアタフタしてた頃、今の状況が想像できたか、ミチル」
「できるわけないでしょ」
 ミチルは笑う。あの時は本当に必死だった。今思い返しても、どうかしていたと思う。
「色々あったなあ」
「ほんとね。色々あった」
「まず、薫と出会ったのがひとつ。それから、菜緒先輩や、三奈と真悠子。清水美弥子先生とも」
 ミチルは、指折りして起きた出来事を思い返して行った。リアナとの出会い。キリカ、アオイ、サトルの3人、そしてアンジェリーカ。ラジオ取材もあった。
「ミチルが倒れた時は、正直終わったって思ったけどな」
「私も」
 倒れた本人は、よけいそう思う。もう部活の存続はないな、と半ば本気で考えた。だが、結果的にフュージョン部は、なくなる予定だったオーディオ同好会を、事実上吸収する形で存続する。フュージョン部が存続していなければ、ザ・ライトイヤーズは誕生し得なかった。今では確信をもってそう思う。部活のみんながいなければ、今こんなふうに活動してはいなかった。ライトイヤーズは、5人だけのバンドではない。
「市民音楽祭もなんか、大変だったなあ。あっそうだ!あの時、1年生にバンド名を勝手に決められたんだ!」
 これは冗談でも何でもなく、事実である。しかも、トリを務めるはずのジャズシンガーが、暴食して腹を壊した穴埋めをさせられたのだ。皮肉にもそのおかげで、ミチル達の演奏能力が世間に知られる事になった。
「夏休みは休んだ気がしない。例の感じ悪いレーベルのオジサンに、ステファニーの前座。ストーカー騒動もあったし。あと、あれ!海に行って、岸壁に飛び降りようとしてたオジサンを助けた事件!」
 こうして思い返すと、とんでもない事件に何度も遭遇しているバンドだなと思う。
「なんかひたすら、小鳥遊さんの運転で走り回った記憶ばっかりだな、あたしは」
「小鳥遊さん、もう半分バンドメンバーだよ。アルバムに、ドライバー小鳥遊龍二ってクレジットしとけば良かった」
 ふたりがゲラゲラ笑うと、道路の反対側のビジネスマンが何事かと振り向いた。移動した事じたいが、ひとつの思い出として胸に刻まれていた。横浜赤レンガ倉庫、ひたちなか市の海浜公園、地元の湖。流れる景色と、カーオーディオから流れる音楽。そういえば、なまずバーガーも食べた。ファーストアルバムのジャケット写真はその時、他の観光客にシャッターを切ってもらったものだ。
「やっぱり、忘れないうちに、この出来事をまとめておこうよ。別に、誰に見せるわけでもないけど」
「フュージョン部の伝説にすればいいんじゃないか」
「そうそう。夏休みは”伝説の夏編”とかね」
「あのな、ミチル。もう懐かしがってるけど、まだ継続中なんだからな、あたしらの活動は」
 ジュナは呆れ半分、もう半分は真顔でそう言った。
「懐かしむには、区切りをつけなきゃいけないだろ。明日のライブ、それを大きな区切りにしよう。そこから、また次のスタートだ」
「そうだね。2年生の終わりに、レコ発ライブ。区切りとしては、これ以上ない」
「ああ。明日はきちっと決めようぜ、相棒」
「ええ」
 ふたりは立ち止まり、手を握り合って、互いの瞳を見つめた。もうすぐ、出会って2年。プロになろうと誓い合った帰り道は、きっと一生忘れないだろう。頼んだよ、相棒。

 現在はカナダ、モントリオールに住むシンガーソングライター、ステファニー・カールソンは、レストランの個室でニューシングル”グラスホッパー”のリリースについて、メディアのインタビューを受けていた。浅黒い肌に黒髪の、ステファニーより一回り年上の女性ライターがボイスレコーダーを向けている。
「久しぶりのライトなロックチューンですけど、ここ最近のフォーキーなイメージから転換されたんでしょうか」
「深い意味はないんだけど。同じようなサウンドが続くと、単純に飽きて来るから」
 当たり障りのない事を答え、メープルシロップのソーダをひと口飲んで続けた。
「真面目な事を言うと、あの子たちの影響ね」
「あの子たち?」
「ザ・ライトイヤーズ」
 そう答えると、ライターは「ああ!」と手を叩いた。
「昨年夏、日本であなたのオープニングアクトを務めた、ガールズフュージョンバンドですね。つい数日前、ファーストアルバムをリリースした」
「そう。だから、ブラスサウンドも今回のシングルでは、いつもより誇張しているわね」
「それはすぐにわかりました。間奏では、メイシオ・パーカーばりのサックスが聴けますね」
「彼女たちのブラスサウンドに、触発されなかったと言えばウソになるわ。例えば、プリンスがキャンディ・ダルファーの参加を求めた気持ちが、わかったような気がする。やっぱり、サックスのサウンドってひとつのアイコンだと思うの」
「つまり、いつかあのサックスプレイヤー、ミチル・オーハラを参加させたい気持ちがある、という事ですか?」
 ここで、ライターはわずかに身を乗り出してきた。まずい、とステファニーは身構える。隣でマネージャーが渋い顔をした。うかつなことを言うな、と。
「まあ、あくまで例えばの話よ。うちには今、信頼できるサックスプレイヤーのチャールズがいるもの」
「けれど、サックスがもうひとり増えれば音に厚みが出るのでは?それに、ライトイヤーズとあなたの共演を観たい、というファンもいます」
 その追及に、ステファニーは気持ちを揺さぶられた。ライトイヤーズとの共演。ファーストアルバムを聴いた時、彼女たちのサウンドの飛躍的な成長に、背筋が震えた。いつか、彼女たちと同じステージに立ってみたい、と確かに思ったのだ。それは、いつの事になるだろう。本音を言えば、今すぐにでも声をかけたいくらいだった。だが、もう少しだけ、彼女たちの成長を見てみたいと思ったステファニーは、控えめに答えた。
「そうね。もし将来、そんな事があれば素敵でしょうね」


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