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「河川と人間②ー荒川の瀬替えと堤防決壊地点を歩くー」第2回 1日目 川博での取り組み

1)はじめに

 埼玉県立川の博物館に、11時に集合しました。神奈川県南部に住まいがある生徒がほとんどですので、結構大変です。駅からも少し歩きます。調べてくることも勉強のうち。自宅から博物館までのルートは各自に任せています。一切の確認は行いません。今回は遠方ということもあったのでしょうか、遅刻者(迷い子)が2名でてしまいました。ただ、これも勉強のうちです。一人で乗り継ぎを間違えることや走って汗だくになること、こういった失敗経験も大切な機会です。

失敗しないと学べないこともあります。
・・・遅れてきたら、当然教員は叱りますが・・・。

1日目の流れは以下の通りです。
11:00~13:00 各自昼食と館内自由見学+当日課題①取り組み(120分)
13:00~14:30 学芸員の方による講義(90分) + 当日課題②取り組み
14:30~15:30 学芸員の方による屋外にある荒川大模型解説(60分)
15:30~16:30 振り返り 当日課題③取り組み
熊谷駅の宿泊場所へ

2)館内自由見学と当日課題①取り組み

 11時に集合して早々に課題への取り組みと昼食の指示をだします。2時間の間に昼食をとり、まずは各自で博物館内の展示を自由に見学してもらいます。当日課題は全部で三つ準備しておきました。この時間の当日課題①は、次のような問いでした。

Q1)埼玉県立川の博物館を見学し、来て良かった、知ることができて良かった事柄や展示を5つ、選んだ理由も含めて記してください。他者が分かるように記してください。

当日課題①より

 当日は、特徴ある常設展に加えて、企画展「うんち、糞、ふん」(7/8~8/31)とスロープ展示「今でも「洪水」は起きている」(6/23~10/1)の二つが開催中でした。企画展入口外には、象のフンとの記念写真スポットが!?チビッ子たちが喜びそうな展示でした。写真にすると、かなりリアルですので割愛しておきます。また、スロープ展示も翌日、荒川を歩く私たちにとってはタイミングの良い展示内容でした。2019年の「令和元年東日本台風」が取り上げられており、川博や周囲の生々しい被害が紹介されていたからです。

当日課題①の5つは、どの展示から選択しても良い形をとっています。ちなみに多くの生徒が挙げた川博の常設展示ナンバーワンは「鉄砲堰」でした。鉄砲堰の実演を見た生徒は、その仕組みに圧倒されたようです。また、荒川のみならず、「河川」と近い地域に住む生徒のコメントは印象的でした。参加生徒たちの答えは、多彩です。写真とあわせて生徒のコメントを以下に紹介しておきます。

【川の博物館全般について】
・前からこの埼玉県立川の博物館にある日本一の大きな水車を見てみたいと思っていたので、今日こうして実際に見ることができて良かった。建物の二階にあるレストランに行っても水車の半分の高さにも届いていなかったので驚いた。(J2Yくん)
・水族館のような水槽や生物展示も併設しているために様々な方面の知識が分かりやすかった。(S1Tくん)
・荒川の最初の流域から現在に至るまでのながれの変化の歴史を五つの映像、機会仕掛けの人形劇風の展示で分かりやすくまとめてあった。荒川の知らない人に向けて楽しく学べて分かりやすかった。(S1Mくん)

【大水車】
・とにかく大き。日本一の大きさ。(J3Aくん)
・博物館のシンボルである大水車はさすが日本一と思うほど迫力があり、面白かった。(J3Hくん)
・シンボルでもあり、大迫力で美しいから。(J3Nくん)
・この博物館の一つの大きなシンボルであり、日本最大の水車。迫力満点で直径は24m以上である。全て西川材という県内の丈夫なケヤキの木材でなる。(J3Nくん)

【屋外展示】
大水車はシンボルでもあり、大迫力で美しかった。コンニャク水車は、錆びた鉄から歴史を感じた。きねやダクトがすごかった。とうみなどもすべて技術力がすごくていつまでも見ていられるぐらい素晴らしかったから。米がつくられているのも面白かった。(J3Nくん)
・水車小屋の展示は、水との暮らしを想像できた。(S1Tくん)
・水車小屋の展示は、荒川の水野具体的な利用方法(利水の例)として、歴史と民俗という視点から見ることができた。(S1Mくん)

【皆野のコンニャク水車】
昭和35年頃まで使われていたということからも分かる通り、深い歴史を感じ取れる。コンニャクを粉にしてひくために様々なギミックが複雑に利用されている。近代的なしくみと昔アンガラの歯車が杵といった木の部品がうまく組み合わさっている。(J3Nくん)


【荒川そのもの】
荒川とは、奥秩父の甲武信岳から始まり東京湾へそそぐ、全長173㎞で、全国15位の長さ。「荒川水系」には中津川、入間川など多くの支流があり、流域面積は合計で2500㎦にもなる。流域面積がとても大きく驚いた。(J2Iくん)

当日課題①より


コンニャク水車(秩父郡皆野町から移設復元)
大水車近景

【荒川の台風被害について(災害に関するスロープ展示)】
2019年の台風による荒川の増水で川の水はこの川の博物館の荒川わくわくランドにも達した。理由は、先生がこの事を話していて興味を持ったから。(J2Kくん)
・自分の祖父母の家が近くにあり、祖父母の家は荒川の洪水の被害を受けていなかったので、この博物館もあまり被害を受けていないと思っていたが、博物館の手前まで洪水の水が迫っている写真があったので驚いた。洪水による被害をより感じることができて良かった。(J2Yくん)
・令和元年10月、日本列島に超大型の台風が襲来した。後に「令和元年東日本台風」といわれた。この台風は、荒川にも被害をもたらした。このころ荒川の堤防でも、河川区域内の施設を浸水させた。ちなみに、洪水とは増水全般をさすので、堤防が決壊していなくても「洪水」という。この部分は初めて知ったので驚いた。(J2Iくん)
・災害に関するスロープ展示は、自らも多摩川の近くに住み、同じ台風19号の時に河川があふれそうになるのを見てきたので、それを違う川ではあるが、改めて新たな学びを得た。(S1Mくん)

当日課題①より
スロープ展示「今でも「洪水」は起きている」風景

 「今でも「洪水」は起きている」というタイトルのスロープ展示は、とても印象的でした。「洪水」が増水全般を指すことをはじめて知った生徒も多かったようです。そして、展示掲載写真を通じて「洪水」の数々を確認できました。そこには、翌日見学予定の「久下」周辺も。貴重な機会をいただきました。

【荒川大模型173】
屋外の1/1000スケールモデルで逆流防止の堤防をみることができたこと。実際に見てみたい。どうして逆流しないのかに興味をそそられたから。(絵は省略)(J2Iくん)
・大規模な展示で驚いた。全長173m!(J3Aくん)
・1000分の1のスケールの大模型を再現したこと(S1Tくん)

当日課題①より


荒川大模型173遠景(屋上より撮影)

 荒川大模型173は、午後に学芸員の方より直接ご案内いただく場所ですが、個人見学の時間にすでに、下見をしていた生徒もいたようです。おそらく、一度事前に見ておいた生徒は、午後の解説をより分かりやすく聞いてくれたのではないかと思います。

【気象の観点から】
「弱い」熱帯低気圧が大雨を長期間降らせたことがあるという展示を見ることができて良かった。今まで天気予報でそこまで気にしていなかった脅威に気づけて対策がしやすくなった。(J2Iくん)

【水桶】
水桶をもってみれるという体験コーナーでは、予想よりもはるかに重くてびっくりした。一人でもって運ぶのは自分には無理だと思った。理由は実際に持ってみて面白かったから。(水桶の絵は省略)(J2Kくん)

【水桶や背負子などの人々の生活用具の模型】
人々の手によって河川の治水工事が行われる前の時代は、水の確保のために、わき水のない集落では水桶を使って人力ではこぶしかなかったということに驚いた。荒川工事は源流域に住む人々にとって大変重要であり、利水・治水の背景を部分的ながら理解できた。(J3Nくん)

【人の糞尿を畑の肥料に】
化学肥料がない時代の人々の生活の工夫を知った。荒川の生態系とともに共生するシステムは、現代でも利用が見直されており、新しい技術から肥料にする運動が起こっていることは良いと感じた。(J3Nくん)

当日課題①より
水桶展示

 ハンズオン展示はやはり、人気です。また、「気象」の観点から関心ごとをまとめてくれている点は、参加者の多様な関心をうかがうことができます。

【鉄砲堰(イベントやスクリーン説明含む)】
鉄砲堰は昔、人間が木を上流から下流まで持って行くのはつらかったから、上流で一度川の水を止めて、それから一気に放流することで、その水流で木を運ぶもの。理由は、昔の人はおもしろいことを考えるなと思ったから。(J2Kくん)
・鉄砲堰という秩父山地でとれた木材を下流に流すためにダムのように水をためて、一気に放出することによって起こる水の力によって木材を押し流す仕組みを知り、水の流れる力がいかに強いかをより強く感じることができたので良かった。(J2Yくん)
・林道ができトラックで運ばれるようになるまで、鉄砲堰といって、せきとめた水を一気に流して山から木材を運び出す方法が使われた。これは水を半日~数日せきとめ、その間に木々を川の底に置く。その後、水を放流して水を流し、いかだ師によって木が下流まで運ばれる。とても危険な作業であった。見ていてとても勢いがあって迫力があった。(J2Iくん)
・秩父の山から木を伐り出して水をためて、流して木を流す。その発想になるのがスゴイ。(J3Iくん)
・切り出した木材を川に流すのは知っていたが、せき止めて一気に流すのは知らなかった。(J3Kくん)
・2tの水が流れ、はく力がすごかった。(J3Aくん)
・川の水をためるようなダムみたいなものを作る。ある程度たまってきたら、水を一気に放出して、木材を上流から下流に流す。水をためる時、もれないよう、木と木の間にこけなどをつめる。(J3Nくん)
・大画面のスクリーンで学芸員さんの解説を用いて、鉄砲堰の仕組みや建築方法、時代背景が深く理解できた。シュミレーターの演出は迫力もあり、間近で見ることができたのは貴重な体験だったと思う。(J3Nくん)
・鉄砲水に対して悪いイメージがあったので、「運ぶ」というイメージをもつことができた。(S1Tくん)
・放水イベントは、展示解説の方の分かりやすい解説に加えて、鉄砲堰の放水で、多くの人が楽しんで伝統を学べる。(S1Mくん)

当日課題①より
鉄砲堰(左側部分)

 「鉄砲堰」のコメントで、「鉄砲水」に「悪いイメージ」があったが、河川を「運ぶ」というイメージをもつことができた、という一文はうれしいコメントです。全く接点のなかった「河川文化」の一つを、学ぶ機会になったと思います。こういった活動をコツコツ続けていきたいと感じます。
 上記写真の通り、博物館内に本物の「水」が流れているのは、きわめて珍しい事例です。何かの折に、「資料保存」の観点から、展示そのものについても生徒たちに考えさせたい事例です。

【船車】
小さい船に大きな機械を載せた船車には当時の人の知恵が感じられた。今までは機械で収穫したものをトラックで運び、製粉工場で粉にするが、移動のできる機会をつくるにあたって、船を使うところに今とは違うものを感じた。(J2Iくん)
・船の上で小麦粉をつくるのはヤバイ。(J3Iくん)
・どのような仕組みか分かりやすかった。(S1Tくん)

当日課題①より
船車展示


船車内部撮影

【川砂利】
明治時代半ばから昭和までセメントの材料として川の砂利が採取され、その結果、水の浄化機能が低下してしまったこと。理由はこれを知るまで、砂利が川にあってもなくても変わらないものと思っていたから。(J3Kくん)
【荷船】
・あんなにせまい所で、一日はすごしたくない。(J3Iくん)
・下肥をかつて船で送っていたという話を授業で聞いていたため、より深く納得できた。(J3Kくん)
【動力としての水車】
今まで水車の外側の部分しか見たことがなかったので、回る力をどのように利用しているかは知らなかったが、今日資料館で水車の回る部分と歯車を連結させて水の流れがある限り臼の上にあるものを自動ですり潰すという仕組みで、主に小麦を潰したり、精米をすることに使うということを知れたので良かった。(J2Yくん)
・西洋の風車とちがい、川の力で小麦をひいていたのが対照的に感じられ面白かった。(J3Kくん)
・小さいのが祖父の家の近くにある。(J3Aくん)
【開平橋】
荒川には開平橋という船と通行人を通せるしくみの橋があった。理由はおもしろい仕組みだなと思ったから。(J2Kくん)

当日課題①より


開平橋展示より

 河川ならではの展示への言及がみられます。「川砂利」に関するコメントは、翌日のフィールドワークでも重要なコメントを残してくれていると思いました。開平橋の構造も、展示で事前に見ることができて良かったです。

【漁】
昔の漁の道具を見て今は楽だなと感じた。今は魚をとるわなも金属製の物が買えるが、竹を使って自分でわなや釣る道具を作ったところに、昔の人はすごく努力していたことを感じた。(J2Iくん)
・荒川の魚おいしそう(J3Iくん)

【荒川の生態系】
生態系や特徴的な生物について知れて面白かった。例えばうんこのにおいを出して胞子をハエに運ばせる植物など。しかもキツネも荒川流域にいる。(J3Nくん)

【キノコ】
荒川にあるキノコを知ることができた。名前は知っているけどみたことないものなどが見れたり、見たことあるけど名前は知らないキノコの名前を知れたり、興味深かった。(J3Nくん)

当日課題①より

【特別展】
動物の糞の中身を調べることで、動物の種類がわかることを初めて知った。理由は展示にあった実際に糞の中身を調べて、動物が分かっていたのを見て面白いと思ったから。(J2Kくん)
・同じような物を食べて同じような地域で生活している動物でも、動物によって糞の形や大きさなどが違ったり、個体によっては糞をまき散らすことで、自分の縄張りを相手に示したりと、自分が生きる為に糞を利用したりと、今まで自分があまり考えたことのんかった糞について、かなり知ることができたので良かった。(J2Yくん)
・見た目が似ている生き物でも住む場所や食生活によってフンの形が大きく変わることが知れてよかった。フンによって家の近くにどのような生き物がいるのかを特定できる。
・体が大きい草食動物は、大量の草を食べて大きなふんを出す。反すうをする動物は、草や藻が小さくかみくだかれた状態でコロコロのふんをすることが多い。
・体が大きい肉食動物は、えものが見つからなかったり、狩りに失敗することもあるので、ふんの回数は少ない。またたんぱく質が豊富なのでくさい。
・体が小さめの動物は、日本では「俵型のふん」をしているといわれる。実際のふんを見て「たしかに」と思った。(J2Iくん)
・糞の研究方法について学んだ。ふんを網に入れて洗い、その後中身を乾かす。中身を種類ごとに分け、食べかすで動物を判断する。たとえば、ほ乳類の毛が入っているなら肉食、草が入っているので草食、のように判断する。ウマのふんからはウシグソヒトヨタケがはえるので、そのようなものでも判断できる。このような方法でも調査できるのだと感心した。(J2Iくん)
・内容物から動物を推測するのはスゴイなと思った。(J3Iくん)
・ミツバチの幼虫は、成虫がフンを片付けていたものと思っていたため、フンをためこんでいたことを初めて知った(J3Kくん)
・ハクセイとかがすごかった。70~80種くらいあるらしい。(J3Aくん)
・うんこは大体同じだと思っていたけれど、動物のうんちは特徴や大きさ、形、固さなども全く違くて興味深かったから。(J3Nくん)
・様々な生物が共通してする「排泄」という行為、またそれによって出てくる「フン」という物から、それが人の利益につながったり、生態系を知れたりした。(S1Mくん)

当日課題①より


令和5年度特別展「うんち・糞・フンⅡ」展示室入口
入口にある「ゾウのうんちと写真をとろう!!」コーナー

 特別展「うんち・糞・フンⅡ」展は、その内容から多くの生徒が関心を持ってくれていました。生徒のコメントを読んでみると、展示を通じて、研究の手法を学ぶという点は、博物館ならではの機会をいただいたと思います。

3)学芸員講義+αと当日課題②取り組み

 そして13:00に再集合しました。ここからが本番です。学芸員・羽田武朗先生のご登場です。90分かけて、翌日歩くことを前提にした荒川についてさまざまな角度からお話しいただきました。そして屋外に飛び出して、荒川大模型を舞台に、源流から荒川河口部まで紹介していただきました。全てを知識として得ることは求めていません。少なくとも翌日歩く前提に、荒川がどのように成り立ち、どのように流れて来たのかについて理解してもらえたと思います。当日課題②の問いをご紹介します。

Q2)学芸員の先生の解説(90分)を聞き、関心を持った点をその理由含めて10点以上記してください。

当日課題②より

 少し冗長になってしまうかもしれませんが、当日の参加者がどのようなことを記しているのかを事実ありのまま紹介してしまおうと思います。当人たちの知識や関心、文章表現力によって大分意見に違いがあります。また、舌っ足らずのため、意図が分からない文章もあります。中には、翌日歩くことで、すでにその問いが解消したであろうものもあります。その関心のレベルやその違いも含めて、すべて示してしまいます。流れだけを追いたい方は、目次より4)もしくは5)にお進みください。

J2Kくん
①荒川には源流点と起点がある。荒川の起点は源流点から8㎞。理由は、源流は源流点と起点も同じだと思っていたから。
②堤防が壊れていなくても、川の水が増水しただけでも「洪水」。理由は、初めて知って面白かったから。
③荒川では三年に一度、洪水が起きている。理由は、初めて知って面白かったから。
➃荒川の川幅が日本一になったところは人工的に作られた。理由は、この川幅が人工的に作られているのは意外だったから。
⑤左岸側の熊谷宿を洪水から守ったため、右岸側が洪水ばっかりだった。理由は守らなきゃいけないのは分かるけど、少し残こくだなと思ったから。
⑥江戸時代の治水対策は今でも使われている。理由は、昔の治水はいいかげんな物が多いと思っていたから。
⑦平常時は決して水量が多い川じゃない。理由は荒川は下流のイメージが多く、水量が多いと思っていたから。
⑧荒川の途中では利根川の一部も合流している。理由は、支流が多いのは知っていたけど、利根川を含むことは知らなかった。
⑨荒川の堤防はカスリーン台風以来壊れていない。理由は、荒川の堤防はそんなに強いのかと思ったから。
⑩荒川の水面は20m上がった。理由はびっくりしたから。

J2Yくん
①大きな川であるのに、人々が治水で水路を変えてしまったため、一部では市や町の、境ではなくなってしまったことに関心を持った。
②荒川はとても大きく長い川であるというイメージがあったので、甲武信岳の源流地点に流れている水はとても少ないことに関心を持った。
③荒川はこの関東に流れている川だけでなく、全国のいろいろな所にあり、人によって荒川と言われた時に思い浮かべる川が違うということに関心を持った。自分はこの埼玉に流れている荒川しか知ら成ったので、どのような荒川があるのか知りたい。
➃1692年の瀬替えの時に色々な川がある中で、どうして入間川流域に水路を変更したのか関心をもった。
⑤荒川の改修工事の前は改修工事後、川になっているところにも建物があったと思うので、その建物が改修工事によってどのようになったかということに関心を持った。
⑥「川幅日本一」に代表されるような荒川の広大な河川敷でも抑えられないくらいの水量になってしまうことに関心を持った。
⑦普段は近くの用水路と同じくらいの大きさの川なのに、大雨が降った時はあれほどの大きさの川になり、洪水を起こすことに関心を持った。
⑧昔から何回も改修工事が行われているのに今も昔も洪水が絶えず起こってしまっていることに関心を持った。
⑨過去の洪水の記録を後世に伝えるために神社や石碑、石垣などのいろいろな所に洪水について示されていることに関心を持った。
⑩川の水が夜間に増水するという訳ではないのにどうして夜間に水位が上がったのか関心を持った。

J2Iくん
①荒川の中で元々の流れ(人の手が加わっていない)は、埼玉県中部まで。理由はどれほど人の手が加わったのかよく分かったから。
②荒川は治水対策が行われる前は自由に流れを変えていた。理由は今の荒川からはとても想像できないし、人の努力を強く感じたから。
③荒川は江戸時代のはじめに大きく流れを南に変えた。理由は、比較的上流よりの地点で流れが変わったことで、河口の場所も大きく変わったことに驚いたから。
➃1910年に1000年に一度の大洪水が起こったことがきっかけで22㎞の放水路を建設した。理由は人が大きな河川を作ったことに驚いたから。
⑤➃の後にとぎれの無い広い堤防が作られた。理由は、意外と古くから堤防があったのとそれだけ深刻な問題だったことが分かったから。
⑥上流の流量はダムの影響で水量が1/3になっている。理由はそんなにダムのキャパシティがあるとは考えもつかなかったから。
⑦カスリーン台風以降荒川の堤防は一回も決壊したことがない。理由は、昔の人の努力が実を結んでいると感じたから。
⑧荒川は今でも3年に1回のペースで増水している。理由は、荒川は今でも「荒ぶる川」だと思ったから。
⑨左岸にある中山道熊谷宿を守るためにあえて右岸をあふれさせていた。理由は、右岸住民の人には気の毒だけれども、あふれさせる考え方も大事かもと気づいたから。
⑩東京の水をつくる浄水場が埼玉にある。理由は、それだけ荒川の占める水道水の量が多いと分かるから。

J2Iくん
①川の博物館には荒川流域を1/1000の大きさにした模型がある。他にも船や鉄砲堰の模型がある。規模がとても大きいと思った。
②荒川の源流点である甲武信岳は他にも笛吹川・千曲川の流域であるため、この山のどこに流れるかでゴール地点が大きく変わる。ロマンチックだと思った。
③荒川の由来「荒ぶる川」は扇状地内を含め川が自由に乱流していることから名付けられた。洪水からではない、という点を全然想像することができなかった。
➃当時の荒川は一筋縄ではなく、たくさんの川の総称である。(③もそこから)その証拠として忍川や和田吉野川は昔荒川だったとされている。とても大きいんだなと思った。
⑤1626年、伊奈忠治によって荒川の瀬替えが行われた。それによって熊谷市で曲がっている。ちなみに秩父で北になっているのは、元々の地形のせい。どういう地形か気になった。
⑥明治43年、千年に一度の大水害が起き、大地や丘陵以外は全てしずんでしまった。そこで、国が荒川を責任をもって工事し、荒川放水路が作られた。そうとうヤバイ水害だったのだなと思った。
⑦⑥で行われた四つの工事が蛇行していた川をまっすぐに変えた。各種堤防を整備した。堤防と堤防に挟まれた広大な大地を遊水池にした。本流と支流の合流点を改修した。江戸時代の工事が多く含まれていると知り、びっくりした。
⑧⑦で色々な工事をしたが、戦後の昭和22年カスリーン台風におそわれる。それによってめちゃくちゃ洪水氾濫した。これにより今でも工事が行われている。カスリーン台風もすごいな・・・。19号が不安
⑨荒川の孤児が行われていなかった頃、昔の水量はとても多かった。現在はその1/3の水量しか流れていない。それでも十分多いなと思った。昔の荒川を見てみたい。
⑩荒川は時折ものすごい洪水を起こす。長瀞町では1742年に起こった洪水の最高地点(通常時の20m上)に「水」と書かれている。他にも民家の石に「ここまできた」や水害の時の倉が4m上にたてられていることからも洪水でとてつもないことが起きることが分かる。次の洪水が怖いなと思った。

J3Iくん
①元荒川の源流
②荒川放水路(22㎞)
③明治43年の大水害
➃荒川上流部改修工事
⑤板橋区と戸田市の交替
⑥支流への逆流
⑦川幅日本一
⑧武蔵水路
⑨寛保洪水摩崖標「水」+安政6年洪水の記録石垣
⑩志木の輪中
⑪切所沼

J3Kくん
①荒川の瀬替え(今ある荒川は工事したものだと知らなかったから)
②荒川の洪水(ニュースにならないだけで、実は三年に一回は増水しているということを知らなかったから)
③横についている堤防(水流の勢いをなくすという役目を知ったから)
➃今の荒川は水量が少なく見えるが、それは先人たちの治水工事であること(水量を調整する工事についてより知りたいから)
⑤江戸時代まで重機もないのにどうやって工事を進めたのか。
⑥洪水の定義は実際には増水していることであって堤防が決壊していることは結果論であること。自分は後者を「洪水」だと思っていた。)
⑦今赤門が使われていないと聞いたが、実際に放置されるのか、取り壊されるのかについて。
⑧長瀞の適度に激流がある地形について、ダムの影響を受けなかったのか気になる。
⑨鉄道の線路はもともと海食崖によってできたというが、なぜ他のところにできなかったのか。
⑩なぜ日本一広い川幅があるのか。

J3Aくん
①市境になっていないということ
②荒ぶる川で荒川
③源流甲武信岳。信濃川や富士川の源流でもある
➃自由に流れていた時をさして荒川
⑤急に曲がる場所
⑥川から離して堤防をつくった人
⑦川幅日本一を初めて知った
⑧1997年の台風で被害が大きい。
⑨被害対策は、江戸時代の時の考えた応用されている
⑩武蔵水路はつい最近川になった

J3Hくん
①人の手で川の流れを大きく変えてしまったことがどうやって百年も前に工事をしたのか気になった。
②なぜ二回目の工事が必要になったのか気になった。
③治水工事を行なった結果どのように水害が抑制されたのか、写真を見たい。
➃バックウオーターがなぜ起きるのかもっと知りたい。
⑤洪水が起こらないように200年前から考えられていた。
⑥どこからどこまでが川なのか区別の基準を知りたい。
⑦なぜ乱流するのか
⑧貯水池をつかってどうやって水害を少なくさせるのか?上流との連携?
⑨水位はどこではかるのか?
⑩堤防はなぜ決壊しないのか?

J3Nくん
①荒川には人間がつくった部分と元々あった部分がある。どうやって作ったのか知りたくなった。
②長さが173㎞で一級河川(国が管理)。どうして国が管理しているのか、昔からあったのか。
③荒川はは人間が真っ直ぐに変えた。なぜ変えた?そんな考えが僕には浮かばないから。
➃荒川はたくさんの工事が行われている。川が逃げ場をなくすと逆流して氾濫してしまうから。知識として面白い。
⑤安定した水量を得るために利根川から武蔵水路によって水が荒川に足され続けている。荒川はあまり水量がないから。なぜ水が少ないのか知りたい。
⑥荒川は江戸時代の時、水位は18mも、今よりも上がったことがある。過去には他にどんな洪水があったのか知りたいから。
⑦人間は荒川が氾濫した時のために4mもの高さの場所を作り、そこに避難できるための小屋を作った。その小屋は皆が入れるほど大きいから。
⑧水神様を信仰している。日本の文化みたいに寺もある。寺の実物を見てみたい。
⑨左岸側をめっちゃ守っていた。中山道だから、右岸側を見捨てていた。なぜ人が住んでいるのに見捨てたのか。
⑩水道水が荒川からとられている。荒川の水で田んぼが作られていて、二毛作をしている(米と小麦)。小麦はうどんになる。もっとあるのか知りたい。

J3Nくん
①埼玉県の白地図を用いて、荒川がどのような流路であるかを考える。市町村との境が川の流れと完全には一致しないことからどれだけ人々の手が加えらえて発展していったのか、図を通して理解できた。
②荒川という名前の由来について、人々が治水工事をする前の荒川扇状地内の自由に流れていた姿から「荒ぶる川」と名付けられたのが意外だった。
③瀬替えによって元荒川があった地面から流れ方が予想以上に大きく変化していた何㎞も南下させることができた仕組みが興味深い。
➃明治時代にあった大水害によって治水工事の決定的な転換点になったこと。近年国家の発展のため、東京都を守ることを目的に活動が始動したという歴史的は行け。
⑤あえて堤防から川までの距離を大きく工事し、水害のような予想外の増水・洪水に備えたことで、日本一の川幅であり、広大な河川敷が広がっている。
⑥現在、台風などが発生した際に貯水湖が一次的に増水した分の水をためることで、洪水による被害を押さえる仕組みが常時自動で作動し続けている。
⑦元荒川から治水工事をしたことで、水量が三分の一程度となりダムの建築で人々の住む集落には水が流れ込まないようになっている
⑧石垣や石碑に大洪水が起こった場所の記録が各地に残されている。現代の人々のためにそこでは家を建てないように注意書きがある。
⑨荒川の瀬替えから遂に洪水が発生しやすくなってしまうケースもあった。水塚という避難するための施設が必要となり、4mもの高さの水害に備えた。
⑩「水神様」がまつられている神社のある地域では度々大水害が発生したと考えられ、私たちに伝える文化の一つである。どれほどの水深まで被害があったのか知ることができる。当時人々がどのような恐れる気持ちを抱いていたのか垣間見える。

S1Tくん
①甲武信岳
②荒ぶる川と書く荒川の名前の由来が自由にながれていると予想した点。昔の荒川の暴れっぷりを想像できる。
③堤防から見ると荒川が遠くにある点。治水に苦労しただろうと予想できる。
➃久下での瀬替えの部分を歩く点。わかり安いと思った。
⑤元荒川の源流。水がもれているのか、どこから流れているのか。
⑥明治43年の大水害。埼玉・東京の低地が守られるきっかけとなった。
⑦荒川放水路。掘削技術も発達していないはずなのに完成できたのは?
⑧逆流防止という、信玄堤のようなことを行っていたこと。
⑨荒川本流改修工事が現在も続いている点。不況の今に良い事か、と思った。
⑩江戸時代の治水対策が明治以後も引き継がれている。

S1Mくん
①荒川がなぜこんなにも多く地形を変えられる力を持っていたか
②今の荒川が「荒」という漢字のない多摩川よりも水量が少なく見えること
③元荒川に今でもみうが流れていること。またその水量がどうなっているのか気になる。
➃なぜ江戸時代の治水だけで明治の水害を防ぎきれなかったのか。
⑤隅田川に合流する「もう一つの川」とは一体何なのか。
⑥正味一日でも、祝賀花火をなぜ続けているのか。
⑦初期に改修が終わったところへのさらなる改修は行われているのか
⑧江戸時代からの川に対するマインドが今でも色濃く残っていること
⑨本当にこれ以上水量を増やすことはできないのか(安全面等)
⑩より洪水の時の水位上昇をおさえるための技術や努力

当日課題②より

 少し調べればすぐに解消する疑問点もあれば、「するどい!」と思う疑問点もあります。この作業の後に、荒川大模型173の前で、源流から河口まで学芸員の先生に60分かけてご案内いただきました。とても楽しい時間でした。最後は「荒川の河口部」へ。2023年3月に歩いた生徒も複数いましたので、「ここ歩いた~」との感想も。
 屋外から室内に戻り、最後に当日課題③に取り組みました。


荒川大模型173説明① 源流からスタート
荒川大模型173説明②
荒川大模型173説明③
荒川大模型173説明➃
荒川大模型173説明⑤ 大分下ってきました!
荒川大模型河口部 ここ歩いた~!

4)当日課題③取り組み

 疲れの色がみえていましたが、もう少し。当日課題③に取り組んでもらいます。問いは以下のようなものでした。生徒によって、取り組み具合はそれぞれですが、こちらでも「ありのまま」をご紹介してしまいます。

Q3)今後も引き続き学び続けてみたい、調べてみたいと思った「河川文化」について、その理由もふくめて記してください。(詳細に書いてもらえると助かります。)

当日課題③より

J2Kくん
今回荒川についての講義をしてもらい、荒川に限らず色々な川はただ流れているのではなく、深く人々の暮らしに関わり、人々が暮らしやすいように人自身が川に工夫をしてきたことがわかった。自分の家の近くの川にもいろんな施しをされてきたりしていると思うので、また今度機会があれば、その川が住んでいる人々にどのような影響を与えたのか、住んでいる人々はどのように改良していったのか、また、その川は人々に対して危険をおよぼしたことがあったのか、などを調べてみたいです。前までは、都市にある川にはいろんな施設で人々の手が加わってきたけど、ある程度上流にはそういう人々が工夫をしてきたところとかはあまりなく、自然のままの形で、あまり調べてもそんなにおもしろくはないかなと思ったが、今回の講義で、上流にも昔の人々の川に対して行われていた工夫の跡があるのだな、と思った。だから、今度機会があったら近くの川の上流付近に行って、川の歴史の跡をs腰探してみるのも面白いかもしれないと思った。(川の調査とはあまり関係ないが、川下りや川で遊んでみたいと思った。)

J2Yくん
自分の家の近くにも多摩川というかなり大きく何度か洪水を起こしている川があるので、多摩川は過去にどのような被害をもたらしたのか、どのくらいの頻度で被害をもたらすような流れになっているかを調べたり、今回学んだ荒川での洪水のように過去にどのくらいの流れになっているかを調べたり、今回学んだ荒川での洪水のように過去にどのくらいの水位になったのかを示す石碑や洪水が起きた時に助かる為の対策はされているのかということも調べたりして、まずは近場の川についての学びを深めていきたい。今回の説明で、荒川について色々なことを学んだが、この説明だけで、荒川の全てを理解できた訳でもないし、説明の中でも疑問に思ったことがいくつかあったので、今後も荒川について調べてみたい。今回は川による洪水について学習したが、大雨などによって災害を引き起こす河川に限らず、沢山あるので、これを機に山や湖などについても色々調べてみたい。

J2Iくん
河川文化:ダムの仕組みと建設方法
大量の水をためて治水や水道水の確保に一役買い、身近なものになっているダムだが、どうやって大量の水を溜めた李、放流したりすることを制御しているのかを知ることによって計画放流や水位低下のメカニズムを理解することにつながると思ったから。
また、大雨の際、どのタイミングで計画放流が行われるかを知ることによって避難の必要性の有無も分かるかもしれないことも理由の一つ。
それになぜ、ダムにいろいろな形があるのかやダムの設置の盈虚も理解すると、設置されている川の特長や水が平時どう流れていくのかも知れて日々の生活にも活きるのではと思ったから。

J2Iくん
明治43年の大洪水の後、国は大きく分けて四つの工事をし、今でもそれは続いていると言っていたが、現在は具体的にどんな工事を行っているかが気になった。私は3月のガチ歩きにも参加したが、その時には工事があった覚えがないからだ。また、その工事を実際に見てみたい。たとえば昔は人の手によって工事がなされていたが、現在はどのような機械が使われているのかが気になるからだ。今そこは安全ではないということなので、安全面がどうかも気になる。そしてこれからどのような工事が行われているかも疑問に思った。なぜなら今ある工事が終わったとしても多分完ぺきなものにはならないので、次はどのような工事で荒川のはんらんの可能性を低くしていくのか気になったからだ。私の予想では堤防を高くしたり、堤防の内側を深くしたりするのが考えられるが、実際はどうなっているのかとても気になる。(今回の講義、ものすごく楽しかった。明日も楽しみ)。

J3Iくん
戸田と板橋の交換について
・花火をするぐらい記憶するべきものなのか?
・両市民はどう思っているのか?
・何年のことなのか?
・当時はどんな反応だったのか?

J3Kくん
川の流れを原動力にした機械について調べてみたい。現代では水力発電に使われ、古くは川博で見た小麦をすりつぶす水車が展示されていた。そこで、水の流れを使った機械の歴史とその移ろいについて知りたくなったから。

J3Aくん
川の工事の方法や工費がどのようにかかったのかが気になる。理由は、いままで歴史とかのテレビでそのような番組をみて面白かったから。志木市宗岡の輪中わからなかった。

J3Nくん
なぜ荒川を選んだのか。他の川もある中、なぜ「荒い」この荒川を人々が選んだのかを調べてみたい。一番気になったのはがなぜ左側を守り右側を見捨てたのか。初めにこの話を聞いた時。左側に人を集めていて、右側には何もないのかと思っていたが、先生が右側にも人がいたと話した時、すぐに人の命より大事なのか?と疑問に思ったので、左側の中山道の歴史についてくわしく知りたいと思った。また、川を簡単に真っ直ぐにしたと言っていたが、江戸時代の人々もやっていたから、どうやってやるのだろうと思った。最高18mくらいまで上がったと聞いたが、平均するといつもどれくらいまで上がるのかを知りたい。そして被害は失敗から学んで少なくなっているのか。もしそうなら、人々はどうやって自分たちの命を守っているのか。対策や準備などを知りたい。昔と今ではどんな違いがあるのか知りたい。

J3Hくん
未来の水害対策について調べたい。なぜなら日本は降水量が多いので水害が多いから。水害はなぜ起きるのか。またどうしたら抑制できるのか、それを知りたい。川には人類の英知があり、それをもっとよく知りたい。水車は人類の英知。

J3Nくん
荒川の改修工事前と後により、人々の生活や文化、その地域にいる生態系に対してどのような影響を与えていったのか、より深く知っていきたいと思う。もたらした結果の長所・短所の両方を知り、事柄のそれぞれの関わりを調べていくことで、荒川をはじめとし、今後河川文化はどのような発展をむかえていくのか、考えをふくらましたい。
単純に人々から大水害に備えるためだけでなく、地理的要因から残酷な歴史的背景や思惑もあったことを知り、ネガティブな事柄もあると認識した。時代が進むにつれて、荒川の発展を立場の異なる人々がどう感じたのか、より深く調べたいと感じた。

S1Mくん
荒川のみならず、首都圏や中京圏、関西圏における大規模河川や中規模河川と人との付き合い方を学びたい。特に河川をどのようにして有効活用しているか、防災意識の高さなどを調べてみたい。こう考える理由は、自分の家の近くの川と自分がどう付き合っていくか大規模災害の多い今の日本で気になってきたことが大きい。

S1Tくん
鉄砲堰について調べたい。このような手段で木材などを運ぶことを他にやっているところや、別の物を運んでいるかどうかが気になる。

当日課題③より

5)おわりに

 さて、ここまで取り組んだ上で、一同宿を目指しました。今回は、熊谷駅に宿をとりました。実施日は8月!翌日の暑さに備えて、よく休んでもらいました。
 なお、2日目のフィールドワーク報告の前に、No.3では、生徒による合宿紹介コラムを掲載いたします。