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紅葉の赤は、ゆっくりと色づくことを知る。

「ねえ、あのもみじ、いつ真っ赤になるかな」

保育園で帰り支度を整えたあと、靴下を履きながら、娘がぽつりともらす。

娘が言う”あのもみじ”とは、保育園と家の中間くらいにある、ご近所さんの”もみじ”。お庭からひょっこり顔を覗かせている、私の背丈を超えるほどの、紅葉の木。

セミの鳴き声が響く8月の夏。
保育園の帰り道、ふたりで手を繋いで歩いていた。

「今日はね、プールでお水あそびをしたのよ」
 そうなんだ、ちゃぷちゃぷしたの?
「うん、ちゃぷちゃぷしてね、せんせいがお水に氷をやって、さわってみてって言ったんだ〜」
 氷浮かべてくれたんだ!どうだった?
「つめたい!ってみんなと言ったんだよね」
 そうなんだ、夏っぽくていいね。水に浮かんだ氷、きれいだよね。
「氷はね、小さくなって、消えちゃったんだよ〜」

たわいもない会話を続けながら、娘の歩幅に合わせて歩く。

ふと、お庭からひょっこりと覗く、青々とした紅葉が目に入った。
この紅葉、2ヶ月後には赤くなるのかなぁ、とつぶやいた。

途端、その言葉を聞いた娘が、口をへの字に曲げた。

「もみじって、赤なんだよ!あれはもみじじゃないの!木なの!」

娘は怒っていた。
ゆるゆると続いていたはずのラリーは、ぶつりと途切れ、再開する兆しはない。

そんなに怒らないでも、とたじろぐ。
目をつむり精一杯大きな声で叫んだあと、顔をしかめて黙りこくる娘。
でもあれは紅葉なんだよ、秋になったら赤く色づいて、冬になったら枯れて落ちるの。
そう言ってみたけれど、娘は頑として受け入れず、もうその話題はやめてと言わんばかりに繋いだ左手をぐっと引っ張られた。

毎日通るこのお庭を見て、娘はたくさんの植物の名前を覚えた。
何度か家主の方と挨拶をして、花束を作ってもらったこともある。
そこから、花や木に興味を持って、図鑑を欲しがったりもした。

毎日音読している保育園のお便り帳。
「プランターに植えた花を見て、これはパンジーじゃなくてビオラよ、と教えてくれました。よく知っていますね。」と書いてもらったのを、得意気な顔で聞いていたこともある。

だから娘は、「植物」にちょっとした自信を持っている。

娘は、自分の知識を否定されるのを嫌う。

3歳になってからというもの、たくさんの情報を吸収するのに忙しい娘。
たくさん覚えて、たくさん褒められる。
そんな中、自分が”これだ”と信じていることを否定されると、「それって違うんだよ!」と怒りがちになってきた。
そして、説明しようにも、半分は素直に、半分は不機嫌になってそっぽを向く。「赤い紅葉」は後者だった。


説明を聞いてくれないのは、ちょっと悲しい。
けれど、この世に絶対ないんてないし、無理矢理教え、諭さなければならないものばかりではない、とも思う。

私が娘にした”紅葉は緑から赤になる”という話も。

あのお庭の緑の紅葉は、赤い紅葉にはならないかもしれない。
黄色になるかもしれないし、緑のままかもしれない。

ムッとして口がツンと上を向いた顔を斜め後ろから見て、まあいいかと諦める。
いつもより歩調の早い娘にあわせ、隣を歩いた。

あの日から3ヶ月が過ぎ、11月。

娘は、葉っぱが色づくことを覚えた。

保育園で先生が読んでくれた、季節の絵本から。
家族で出かけた公園で、緑から黄色へと色づいた葉っぱの理由を問われたことから。
祖母の家で育てていた朝顔の葉が、枯れて落ちたことから。
図鑑で見た紅葉の写真が、緑から赤に色づいていたことから。
テレビで流れたCMで、紅葉する紅葉を見たことから。

娘は知らず知らずのうち、受け入れる準備をしてきた。
私はそれを、ただかたわらで見てきた。

娘に手を引かれながら、紅葉の木まで小走りで向かう。
ねえ、あの木は緑だから紅葉じゃないって言ってなかった?なんて、顔を紅潮させながら必死に走る娘を見ると、そんな無粋なことは言えない。

紅葉の先端は、少し前から、じりじりと赤く色づき始めた。

「昨日より、ちょっと赤くなってきてるきがするよねぇ」

少し息を切らし、こちらに顔を向ける。

「今はね、緑と赤だけど、秋にはね、もみじは、緑から赤になるんだよ、かか、知ってた?」

すっかり忘れてそんなこと聞いて、まったく、笑みがこぼれてしまうじゃないか。
こういうとき、娘をとても愛おしく思う。

そうだね、知ってるよ。

知ってたんだ〜と笑う娘をみて、あの夏を思い出す。

そう、ゆっくりでいいんだよね。
ゆっくり、見て、知って、積み重ねて行けばいいんだから。

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にわのあさ
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