卑猥な街
大阪に転勤して3ヶ月がたった。
会社から紹介されたのは、野江内代(のえうちんだい)という町にあるアパートだった。変な地名だな、と思った。「うちんだい」という響きに何となく歴史を感じたのだが、行ってみるとただのゴミゴミした普通の街だった。
「変な町名ですよね」と同僚に言うと、「いやあ、喜連瓜破(きれうりわり)よりもマシちゃうか」と言われた。キレウリワリ? なんだ、そのへんてこな町名は、と私は呆れた。
ある日、電車の中で同僚と話していると、チラチラと視線を感じた。同僚に聞いていみると「ああ、あんたが東京弁やからな」と言われた。「まあ、最近は中国語や英語を喋ってる奴が多いから、前ほど反感は持たれへんやろけど」
これはいけない、と思った。郷に入れば郷に従え。反感を持たれては、営業マンとして失格なのだ。
私は本屋に行き、店員にたずねた。「手っ取り早く大阪人になりたいんだが、いい本はないかね? 『大阪弁をマスターする本』とか『たった二週間であなたも大阪人になれる』とか、そういう本を探しているんだが」
「ああ、ありますよ」とすぐに店員が一冊の本を出してきた。わかぎゑふという人の「正しい大阪人の作り方」である。さすがは大阪の本屋だ。
さっそく帰りの電車の中で読み始めた。
冒頭に書かれた大阪人の生態に、私は驚かされた。Kという東京出身の女の子が、大阪の企業に入社。その出社一日目のことである。
>その次の瞬間だった。「わし、ちょっとウンコ行ってくるわ」とY部長が言い放ったらしい。Kはパニックになった。「なんで? なんで私に報告するの? え? 嫌がらせ?」というような心理状態になったという。
それを読んだ瞬間、私は「あっ」と声を上げた。
以前、大阪出身の女の子と付き合ったことがあった。沢口靖子に似た美人で、ヨーヨー・マのチェロの調べが好きな女の子だった。ある日、街を歩いていて、彼女が私の袖口を引っ張りながら言った。
「ねえ、オシッコ行ってくるわ」
「ああ、こらこら」と私は注意した。「いちいち詳細にいう必要はない。そういう場合は『トイレに行ってくる』で十分だ。それとも君は、ウンコなら『ウンコに行ってくるね』と言うのかね?」
考え違いをしていた。大阪人は、「ウンコに行ってくるね」と言うのだ。どうやらそれが大阪人の正しい行動らしいのだ。なのに私は、彼女が非常識なことを言ったと決めつけて叱責してしまった。
彼女には悪いことをしたな、と私は少し後悔した。幸い、彼女のアドレスはまだ残っている。あとで、「ウンコに行くときはウンコに行くと言ってもいいよ」とメールしておこう。
この本を買ってよかったな。と私は、「大阪人の作り方」をパラパラとめくりながら思った。これほど端的に大阪人のことを教えてくれる本は、他にないのではないか。
ちなみに著者のわかぎゑふという人は、大阪市の玉造という町に住んでいるらしい。なんとなく卑猥な印象のある町名である。
玉を造るとは、やはりあの玉を造っているんだろうか。街区の分け方は、やはり「赤玉」とか「白玉」なのだろうか。そして、やはり一番由緒ある場所は、「金玉」なのだろうか。
「住所はどちらですか?」
「はい、大阪市玉造町金玉1丁目です」
大阪人、恐るべし。
野江内代や喜連瓜破を聞いた時も感じたのだが、大阪人は、町名でも笑いを取ろうとしているのだ。
そして、わかぎゑふさんは、笑いを取るためにわざわざ卑猥な街に住居を構えているのだろう。さすがは、大阪のプロの物書きである。芸に対する姿勢がちがう。
今日もわかぎゑふさんは、金玉3丁目あたりをブラブラされているにちがいない。