信者な人々
信者というのは、困ったものである。
例えば私の知り合いのデザイナーは、Mac信者である。私はWindowsもMacも使っているのだが、彼にしてみれば、私は「裏切り者」なんだそうだ。「なぜ、あんな未開のOSを使っていられるのか、さっぱりわからないな」と彼は言う。「Windows機を持っているというだけで、センスを疑われるね」
私からすれば、パソコンなんてサクサク動けばそれでいい。外観は、「デザインしてますぞぉ」と意識させないようなシンプルなものが一番で、値段は安いにこしたことがない。彼には、それが理解できないのだ。
Macはオシャレで使いやすくWindowsはダサくて使いづらい、というのが彼の二つのOSの評価である。それ以外の意見は認めない。
「そういう偏狭なことを言っているから、頭がハゲるんだよ」と私は、彼の頭を指差しながら言った。
「なにっ。頭やったら、お前もハゲてるやんけ」と彼は逆上して大阪弁になる。ふだんは標準語のくせに、感情的になると大阪弁が出てしまうのだ。こういうエエカッコしいな点も、Mac信者の特徴である。
それを指摘してやったら、彼は「フンガーッ」と頭から煙を出してドアを思い切り叩きつけて出て行った。おそらく一ヶ月は近寄ってこないはずだ。まるで子供である。
やれやれ、と私はため息をつく。
ああいう幼児性の強い人間ほど、一つのものに執着しやすいのだろう。精神に余裕がなく、偏狭で、直情的だ。自分だけが正しく、それ以外は間違っている。以前、知り合いに新興宗教の信者がいたが、まったく同じだった。
私は、気分転換にジョギングに出かけることにした。この程度のモヤモヤなら、1時間のジョギングで霧散する。
近所に川が流れている。その川沿いの道路は桜並木となっており、車の往来も少ない。ウォーキングやジョギングにピッタリで、いつも人の姿がある。桜の季節や紅葉の季節もいいが、今の季節も緑が鮮やかで悪くはない。
「やあ、久しぶり」と声をかけられた。ジョギング仲間の初老の男性である。名前は知らない。前に、ニューバランスの同じシューズをはいていたのがきっかけで言葉を交わし、それ以来挨拶するようになった。
「新しいシューズを買いましたよ」と彼が言った。見ると、ナイキの製品である。青地にオレンジ色のラインが毒々しい。
私は、ムッとした。
「あなた、ニューバランスをはいていたのに、なぜ、ナイキなんかにしたんですか」
「えっ」
「ジョギングに一番いいのは、ニューバランスに決まってるじゃないですか。あなただって、日本人の足を知り尽くしたニューバランスだからはいてたんでしょ。それをナイキにするなんて。あなた、無知と笑われますよ。いずれ足を痛めますよ。いや、もうすでにヒザをやってるかもしれない。いやいや、ナイキなんかをはいていると、いずれハゲます。すぐにハゲます」
不思議そうに私を見ていた彼が口を開いた。「いや、それはおかしい。あなたはニューバランスをはいてるのにハゲてるじゃないですか」
一瞬で頭に血がのぼった。
私は、いかにニューバランスの靴が優れているのか、彼の認識が誤りなのかを伝えようとした。だが、言葉が出てこなかった。代わりに出たのは、蒸気機関車の汽笛のような一声だった。
「フンガーッ」
私は、頭から煙を出しながら走りだした。