日々のささやかな救い
30~40代はよく仕事をした。
回りからは、「正月も避けて通る男」と呼ばれ、日曜祝日はもちろん、元日から仕事をしていた。別に仕事が大好きだったわけではなく、仕事があるからやっていただけだ。まあ、嫌いでもなかったが。
そんな中での私の気晴らしは、「お、今日は少年サンデーの発行日だぞ。『アームズ』が読める。ああ、昼休みが楽しみだな」とか「今日は深夜に『スタートレック』があるぞ。それまでに帰らなきゃな」とかの実にささやかなものだった。
小さな楽しみを糧にして、なんとか日々をしのいでいたのだろう。
ある日、レイモンド・カーヴァーという作家の短編に「ささやかだけど、役にたつこと」という作品を見つけた。カーヴァーが少年サンデーのことを書くわけがないのだが、なんとなく近しいものを感じて、読むことにした。
笑う牝豹もMr.スポックも出てこないのだが、すばらしい作品だった。そして、とても悲しい作品だった。
訳者は、村上春樹氏である。
母親がパン屋でケーキを予約する。誕生日を迎える息子のスコッティーのためである。ところが彼は、車に轢かれてしまう。その時は大丈夫だったのだが、頭を打っていて、あとでぐったりしてしまう。
心配してスコッティーに付き添う母親の元に、相手の知れない電話がかかりはじめる。
「ああ、そうだよ。スコッティーのことだ」などと相手の男は言うのだが、何のことだか分からない。
結局、スコッティーは死んでしまう。だが、その後もイタズラ電話はかかってくる。ある日、母親は電話の相手が誰であるかに気付く。そして、夫とともに抗議に出かける。
子供を失うという悲しみとイタズラ電話への怒り。なんとも可哀想で、そして腹立たしく、読んでいくのも辛いくらいなんだが、最後の最後で、ささやかだが、あたたかい救いがある。
それがレイモンド・カーヴァーのささやかだけど役にたつことだ。
さて、かつて「正月も避けて通る男」と呼ばれた私も、今ではただの偏屈ジジイとなってしまった。そして、私の「ささやかだけど、役にたつこと」も、より即物的なものに変化してしまった。
集中力がなくなったせいで仕事がはかどらない。悪循環で徹夜が続く。頭がボーッとして文章にキレがない。送られてきたPDFファイルには、訂正が山ほど記載されている。「誤字が多いです。ちゃんと見てください」とディレクターの赤い注意書きが目に染みる。
嘔吐感がある。だが、まだ仕事は終わっていない。
こうなったら最後の手段だ。ユンケル黄帝液を買うべ。容量はささやかだが、十分に役にたつのだ。なにしろ、あのイチロー選手が飲んでるんだからな。たたないワケがない。
私は、ドラッグストアに出かける。
途中、妙齢の女性が歩いているのを目にする。しかも、タイトなスカートだ。彼女は、クイックイッと尻を動かしながら歩いている。
いつもなら、私はそんなものには興味を示さない。
機能的にも素材的にも、彼女の尻と私の尻はまったく同じなのだ。私は、そんなものに興味を示すほど間抜けではない。
だが、今の私の疲弊した精神は、ささやかだけど役にたつことを求めていた。なんと言うことか。クイックイッと動くその尻を見ているうちに、私の疲れは徐々に氷解していったのである。
ユンケル黄帝液よりも通りすがりの女の尻。
実に安上がりでよろしい。