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講義前の20分
後ろの学生
僕の好きな講義が始まる。広い講義室を使っておきながら先生が延々とお喋りをして、楽な授業かと思えばしっかりと感想を書かされる、適度にゆるく何となく面白い授業。多分、穴場の授業だ。おじさん先生は観光が専門で、講義名は堅っ苦しい名前で。周りの友人はこの授業の存在にさえ気が付いていないだろう。300人を収容できる大講義室に集まる学生は40人程で、まるで人気のない映画館だ。
でも、みんなは 知らない。これはコーヒー好きのおじさんによる世界各地のコーヒーと旅の思い出話の時間なのだ。ちゃんと話を聞いた日には一日中その内容を頭の中で反芻し、90分間ぼーっと過ごした日には休日のような心地になる、何とも不思議な時間だ。
ちらりと前を見る。染めていないんだろう自然な焦げ茶色の髪がまっすぐに下ろされ、かすかにさらさらと揺れている。綺麗なロングヘアの頭は、いつも通り少し下を向いていた。
僕が好きなのは、本当は講義の前、つまり今だ。
それは本を読む“彼女”を見つめる20分。これまで、僕が講義室に入ったときには彼女はとっくに本を開いている。そっと彼女の3つ後ろ、少し斜めの席に座ると、落ち着いた横顔と緑色のブックカバーが少しだけ見えるのだ。周りから多少不自然に思われても、この特等席は譲れない。
彼女は相当の読書家なのだろう。ページをめくる音がしょっちゅう聞こえ、紙をつまむ右手は妙に手馴れている。少しずつ知的な雰囲気がのぞくから、僕はどうしても彼女から目が離せない。
風が強く吹いた。彼女は乱れた髪を整え、右の耳に髪をかけた。
いつもより横顔がよく見え、文字を追う目が露になった。
何かがおかしい。そういうものなのだろうか。ほら、彼女は本を読むのが速いから。いや・・・
本を開く学生
何で彼は私の近くに座るんだろう。この部屋はこんなに広いのに。本棚を他人に見られたくない人はよく聞くけれど、私はブックカバーの中さえ人に見られたくない。
前に、ガラスに映る自分の姿を見てはっとした。本を開く私は、程よく大人っぽくいかにも読書好きな雰囲気だった。でも、その目は右、左、右下、左下と動く。それに、ページをめくる頻度が高い。いくらなんでも。
後ろから見えてしまうことはないだろうか。わざわざ外でマンガを読むのに少し抵抗を感じてカバーをしているというのに。目の動きが後ろの彼に見えることはない。大体、赤の他人の私に興味があるものか。
私は涼しい顔をして、早めにここに来てはマンガを読み続けている。
この授業とマンガは相性がいい。授業が始まる前にマンガを読み、授業の後に先生の話に出てきたコーヒーを飲みながらマンガの続きを読む。これが最近の楽しみだ。たまにこれでいいのだろうかと思うこともあるけれど、こんなことができるのは大学生の特権だろう。
前方に座る子が目に入った。いや、まずは香りだった。甘い香水の匂いは、恐らくどんな場所でも彼女がいた証になるのだろう。甘い香りと、金色のショートカットが強い存在感を放つその子は、スマートフォンのカメラを使っていた。鏡の代わりだろう、画面に私の姿が映りそうになって慌てて顔を下げ、マンガに戻った。
まだ見ている。自分に自信がある子なのだろう。
俯瞰する学生
マンガを隠し読む人とそれを覗く人。このまま写真を撮りたかったけれど、シャッター音はまずい。
前の授業で、それに気が付いた。
講義室の前側の入り口から入ると、講義室の様子がよく見える。大体の学生は一人、もしくは友人と隣り合って座るのに、あそこの二人は「近い人たち」だった。後ろの男の子が前の彼女を気にしていることは前から分かっていた。さりげなくを装って彼女を見つめる姿は、こちらから眺めるにはなかなかにおもしろい。
席に座る前に、女の子が読む本の中身が見えた。なるほど。賢そうな印象を裏切る、いいギャップじゃないか。多分、男の子は小説でも読んでいると思っているんじゃないかな。
この二人をこっそり見たくて、今日はカメラを向けた。お互いに気が付かない二人は、こちらにも気が付いていない。それぞれに集中する顔はとても微笑ましい。これが見られるのなら、今度からもう少し早く来てもいいかもしれない。
入り口から先生が入ってきた。こんな身軽な先生を見たことがない。パソコンを持たず、片手に古びた手帳を一冊。旅の記録兼日記だそうで、コーヒーの匂いがするらしい。この講義を選んだのはキャンパス内を歩く先生があまりにも荷物を持っていなかったからだ。直感でこの人の授業はいいだろうと感じた。それは今も間違っていない。
横切る学生
前回、提出物を忘れた。今度出してくれたらいいよということで、先生が来たらすぐに出そうと急いで立ち上がった。
3つ前の席をちらりと見つつ、机と机の間を進んでいく。
彼女が本を閉じた。ぱたん、と音がして、緑色のブックカバーを鞄にしまった。
香水の甘い匂いがする。その香りに相応しい華やかな後ろ姿がスマートフォンの画面を消したのが見えた。金髪の頭が横を向いて、僕の目を見て笑った。
可愛い顔をした男の子だった。
「おはようございます。レポート、遅れてすみません。」