カポエイラに魅了されて辿り着いたブラジル
対談をもとに音楽を探るrhyZm。
自身のルーツとは遠いところで生まれた異文化に惹かれる理由はどこにあるのか。
今回はブラジル、バイーア州が育んだ音楽と格闘技にそれぞれ惹かれた2人が語り合います。
プロフィール
島野賢哉
ブラジル音楽に惹かれ、ブラジル各所に滞在、居住。ブラジル、とくにバイーア州で出会ったサンバレゲエの魅力を日本や台湾、他、世界各国に伝えるため、サンバレゲエグループ「BARRAVENTO」(バハヴェント)を仲間とともに創立。現在クリエイティブサウンドスペース 「ZIRIGUIDUM」(ジリギドゥン)を東京四ツ谷に開設し、音響機材を駆使しながら音の可能性を探る活動を展開中。東京都出身。
池崎雄一(Matte Leao)
17回の渡伯で自身のカポエイラ修行をしながら、日本にカポエイラを広めるため、バイーア州サルバドール市のグループ、GUETO CAPOEIRAのMestre Jean(ジャン師範)に師事し、ゲトカポエイラ日本支部を金沢で立ち上げる。現在国内では13都市、台湾にも支部を持ち日本で初めての高校の授業への導入や保育園にてカポエイラを教える講師としても活躍中。ゲトカポエイラ日本代表。タイトルはContra Mestre(準師範)2009年より島野を師事しブロコバハベントに加入。
島野:マッチくんとはいっしょに音楽の練習をしたり、カポエイラにあわせて演奏させてもらったりっていうことが多いから、あらためてこうして考えてることをマッチくんとちゃんと話す機会はけっこうめずらしいことなんだけど、マッチくんの最初のカポエイラとの出会いやきっかけなどから、いろんなことを話せたらいいと思っています。まずマッチくんのプロフィールから話してもらっていいですか。
マッチ:はい。本名は池崎雄一。カポエイラネームはマッチ・レァオン。カポエイラは23年やっています。
島野:もう23年なんですね。18ぐらいのときからですか。
マッチ:そうですね。それからいろいろな経験を経て、いまはゲトカポエイラという団体をブラジルから日本に持ち帰り、各地に広める活動をしています。僕自身ブラジルには17回ほど行っています。ゲトカポエイラはブラジルを拠点に世界中で広がっていて、僕らはその日本支部代表として、いま日本のなかでも全国に13支部あります。日本の在籍メンバーは400名ほどになりました。台湾にも支部があります。
島野:日本だけで400人ですか。すごいですね。
マッチ:僕自身は保育園の授業でカポエイラを教えたり、私立高校の選択授業で毎週カポエイラを教えるということもしています。僕の現在のタイトルは師範代を意味するコントラ・メストレです。
島野:ゲトでカポエイラを始めたのはいつなんですか。
マッチ:14年前ですね。
島野:それ以前の9年間はゲト以外のところでやっていたんですか。
マッチ:そうです。じゃあそこに至るまでのいきさつをお話しします。カポエイラに出会うまえはサッカー一筋で、サッカーばっかりやっていました。三浦知良の本なんかをよく読んで、ブラジルになんとしても行きたいと思ってましたね。
島野:そのときからやっぱりブラジルに行きたかったんですね。
マッチ:魅力的でした。
島野:僕もサッカーをやってましたよ。たしかに魅力的だったな。
マッチ:シマケンさんは昔剣道をやってたって聞きましたけど、サッカーも?
島野:小中高でずっと剣道を続けて、中学だけサッカーと剣道を両方やってました。当時のサッカー部に所属していた何人かのメンバーが、並行して町のサッカークラブに入っていて、そこにはたまにブラジル人の講師が教えにきていたんですよ。で、そのメンバーたちがみんな個人技も上手かったけど、反則とか転び方も上手かった(笑)
マッチ:コスい中学生ですね(笑)
島野:だからフェイントとかもなんかブラジル人っぽくて(笑)めちゃめちゃおもしろかったです。マッチくんもサッカーからなんですね。
マッチ:はい。僕は幼稚園から高校までずっとサッカーをやっていました。親からは「みんなとおんなじことをしたほうがいいよ」っていわれて育ったんです。その反面か目立つことや人と違うことが好きで。いつも親のいうことの逆をいこうとしてました(笑)サッカーをやめたときに空手を初めて、それからバンドを見て、これがやりたいと思って音楽を始めたんですけど、同時にダンスも気になって、いろんなことに興味がありました。そんなときにテレビでカポエイラを見たんです。見た瞬間に、これはヤバイと思いました。あんまり知ってる人がいないし、しかも好きなことが全部混ざっていて、とても魅力的でした。テレビを見てまねごとみたいなことはしてたんですけど、石川で本格的に学べるところはなくて、東京ならカポエイラができるんじゃないかと思って、東京の専門学校に進学しました。でもそのときにいちばん興味があったのはバンドで、バンドをやりながらカポエイラを探してました。その当時、東京でもカポエイラを教えてくれるところは少なくて、どこに電話してもないんですよね。何件も電話であたってようやくみつけたところでカポエイラを始めました。
島野:東京に来てから始めたんですね。
マッチ:そうです。最初はダンススタジオでカポエイラを初めました。
島野:そうなんですか。
マッチ:当時僕らが習った先生たちというのはダンサーが多くて、その人たちがカポエイラをクラブシーンにもちこんで、アンダーグラウンドで流行らせたかんじですね。それを習った僕らの世代が実際にブラジルへ学びにいって、いま先生をしているのは僕ら世代がいちばん多いです。
島野:なるほど。最初にカポエイラに触れた体験はテレビだって話だけど、カポエイラをテレビでやってたんですね。
マッチ:ネットなんかない時代だったのでテレビですね。DA PUMPの振付師がカポエイラをやってたんですよ。DA PUMPの番組で、こんなのがあるんだよって紹介していて、そのときブラジルの映像もチラッと流れたんです。あとはゲームの鉄拳でも見てましたね。
島野:そのダンススタジオにはどれぐらい在籍していたんですか。
マッチ:半年ぐらいしかいなかったですね。まだ団体という感じではなくてダンサーの先生がカポエイラを教えているところというかんじで。 そこだけではなく、ちゃんとしたカポエイラのグループそのものがまだ存在していなかったんですよね。あるにはあったんですけど、ブラジルの源流を伝えるようなグループではなかった。
島野:当時はバテリア(bateria:打楽器)があったり、みんなでホーダ(roda:「輪」を意味する。楽器が演奏されるなかで円陣を組み、対戦者は円陣の中心で組み手をする)をやったりしていなかったんですか。
マッチ:していなかったです。
島野:どんなかんじだったんですか。
マッチ:ダンサーが多くて、田舎から上京したての僕なんかまわりとあんまり馴染めないかんじで…先生もカリスマっぽい雰囲気で前に立ってて、それをただ真似する。先生も生徒もみんなおたがいしゃべらないんですよね。なんだこの世界…?って思ってました。ホーダみたいなものも一応やるんですけど、円になって囲んだ人たちのなかから先生が肩ポンポンって叩いて、叩かれた人は前に出て2人ずつ演技するみたいなかんじでした。音楽は楽器の演奏なんてもちろんなくて、CDで流していましたね。楽器があることすら知らなかった。そのあとでアメリカ人の先生のところに教えてもらいにいったんです。彼のところには楽器があって、初めてこんなものがあるのかと思いました。そこでサンバとかマクレレとかいろいろ教えてくれて、カポエイラは格闘技なんだということがだんだんわかってきました。
島野:そのときから彼は楽器も揃えていたんですね。
マッチ:そうですね。彼はアメリカで学んだ人なので、アメリカはブラジル移民がカポエイラを伝えて、すでに文化として浸透していたんだと思います。
島野:その先生のところではどのくらいいたんですか。
マッチ:4年ぐらいやってたかな。長かったですね。
島野:そのあいだにブラジルは行かれたんですか。
マッチ:はい。カポエイラをはじめて2年半ぐらいかな。2000年に行きました。
島野:はじめてのブラジル?
マッチ:はい。1回目のブラジルはミナスジェライスに行って。すごいいじめられました(笑)まえに話しましたけど(笑)
島野:そうらしいですね(笑)ひどかったって…その先生の紹介でしたよね。
マッチ:はい。先生のメストレ(師匠)のところに行ったんですけど、そこに行けば「俺の恩恵がいっぱい受けられるぞ」とか言ってたのに、だれもそのアメリカの先生のことを知らなくて(笑)メストレは「日本であいつはいくら儲けてるんだ?」とか、「家賃はいくらなんだ?」とか、お金の話ばっかり聞いてくるし。滞在の半年間メストレの家でお世話になるという話だったんですけど、1ヶ月ぐらいで追い出されて道場に住むことになって、ブラジル人の道場生8人との共同生活がはじまって。そしたら日本人の金持ちのボンボンが来たっつって毎日金をせびられて、金がなくなってきて、もう金ないっていうと「あいつは金もってるくせに金をわたさない」って、そこからいじめがはじまり…トイレに閉じこめられたり、風呂場に閉じこめられたり。イベントにいったときも歩いて帰らされたり、少しずつ物を盗まれたり…
島野:言葉もまだわからないときでしょ。
マッチ:はい。辛かったっすね、あの半年は。ブラジルに行くまえは、カポエイラめっちゃ上手くなってくる!といって日本のみんなにお見送りされたのに、もうそれどころじゃない、みたいな。朝起きたら腕に鉄アレイが乗せられてて、身動きができん(笑)
島野:すごいっすね、鉄アレイ(笑)
マッチ:夜寝るときは枕がゴミ箱に捨てられてたり、布団が隠されてたり…
島野:僕が聞いた話は反則されて大変なことになったって…
マッチ:あれは最後のデスペジーダ(despedida:送別)のホーダで、ジョーゴ(Jogo:ゲーム、試合)に入った瞬間、顔面パンチくらって血だらけになって救急車で運ばれて終わりました。そんな1回目のブラジルでした。
島野:苦い経験を(笑)
マッチ:苦い苦い、ほんと苦かったですね。
島野:それでもうふざけるなって、デスペジーダで日本に帰ってきたわけですね。
マッチ:そうですね。
島野:そっか、半年間ずっとそういうイヤな思い出だったわけですか。
マッチ:いやほんとに…でもそれまでの自分の世界の狭さとか無知とか、世の中を知らなかったっていうこと、なんともならんことがあるっていうことを知りました。イヤなこともあったけど、そこで助けてくれた仲間もいたんですよね。「もうあんなところに行かなくていい」ってメストレとすごい喧嘩して怒ってくれる家族がいた。それと日系人の美容師さんがいたんです。そのとき日本語をしゃべれる人なんてまわりにいなかったので、その人にも助けてもらった。ブラジルの両面をみたと思いました。悪い人もいれば、いい人もいる。世界中どこだってそうでしょうけど。カポエイラで行ったけど、ブラジルという国そのものが衝撃でした。
島野:イヤなことばかりじゃなく、手を差し伸べてくれる人もいたんですね。それはいい経験ですよね。それから日本に帰ってどうしたんですか。
マッチ:カポエイラのシーンが東京にしかないので東京にすぐ戻ろうと思ったんですけど、アパートはもう引き払ってしまっていたので、一度金沢の実家でお金を貯めてから東京に戻ろうとしていたときに、金沢でカポエイラをやっている人たちと出会ったんです。カポエイラをもっと知りたいのに、ビデオを観て見よう見まねでやるしかないけど、ちゃんとブラジルのことを知りたいという人たちだったので、合流していっしょにやりはじめました。ここで自分が求められているということを感じたのと、「東京にもカポエイラはあるけど、大事なのはブラジルとつながることで、金沢でもできるんじゃないの」と言ってくれた人がいたことから決心して、金沢に残って続けました。そのうちに、まだ所属していた最初のグループは辞めて、自分でサークル活動を始めたんですが、自力での限界を感じました。グループに所属しながら知識や技術をもつ人と対峙したときに、自力のみでは弱いと思いました。これはやっぱりグループが必要だと思って、2回目のブラジルに行ってグループ探しの旅に出ました。
島野:なるほど。2回目のブラジルへ。いつ行かれたんですか。
マッチ: 2004年ですね。その旅でナイエコというグループを探しあてて日本に持ち帰ってきて、さあバチザード(batizado:「洗礼」の意味。カポエイラ練習生がグループの一員として認められるためのセレモニー。昇段式)をやりますっていうときに、ビザがおりなくてブラジルからメストレが来れなくなったんです。肝心のメストレが不在ではバチザードにならない。呼べないこともあるのかとあきらめてたんですけど、その後メストレは日本への旅費を全部使いこんでた(笑)日本に来れなかったのは嘘じゃないんですけど、そのお金を自分の親の美容院の開業資金にあてたそうです。とんでもないことをしてくれたってことで、もう信用はできない。そこのグループはぬけて、つぎを探すしかない。
島野:すごいですね、まったく関係ないことに使いますね(笑)
マッチ:うん、まったく関係ない(笑)
島野:いままでの努力はなんだったんだ…
マッチ:そうなんです。2004年のブラジル滞在は1年間バイーアにいたんですね。1年間ずっとそこで信頼を得るためにグループに貢献して、さあ持ち帰ろうってところまでいって、日本でバチザードをしようとしたらできなくて、けっきょく最後はそんなかんじで、すごいガッカリでしたね…でも貧しい人たちにお金をパッと渡してしまって、彼らにしたらもう目の前にあるお金は使うでしょってかんじですよね。そういうこともわかってなかった。そんな経験もあって、グループを選ぶのは難しいなとおもいました。そのなかでメストレ・ジャンたちに出会えたのは、ほんとによかった。
島野:家族のことをほんとに大事にするひとたちなんですよね。大金があったから家族のために使った。彼らにとっては関係ないことに使ったって感覚ではないのかもしれない。それでも真剣にカポエイラを学びたいという想いを踏みにじられたことに変わりはないんですよね…紆余曲折を経ての出会いなんですね。
マッチ:そうですね。そういった経験があって、やっといまのメストレ・ジャンに出会ってゲトカポエイラを日本に持ち帰ることができました。
続く
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