顔の不在について
人でごった返した地下通路を通って、もうどこに出てもいいや、とか思いながら適当な出口に続く階段を上る。
地下空気の冷たさが、一段ずつ、外の粘着質な温度と溶け合って、階段を登り切ると、変な欠伸がでた。
歩いてしばらく、横をホストの宣伝トラックが通る。知らない人が4人。
目を細めて、上のビル壁を見ると、たぶん、浜崎あゆみのポスター、そのすぐ横のビルでは、おおきな顔がおおきなポテトチップスを食べている。
大型モニターにも、バス停にも、いたるところに顔。
誰かと会うことは、必ずその人の顔と対面することでもあるが、その時は、顔に引き込まれたり、威圧感や恐怖を感じたり、どこか親しみを覚えたりするのが常だ。
それは決して、表情がどうとかいう話ではなく、顔そのものに覚える感覚である。目の前に顔があるということ、それ自体に不思議なきもちがある。
ところが、街に散見される顔というのは全くそういう思いを掻き立てない。
顔としての決定的な要素が欠けている。顔が(画)像になる時の、その特異さの消失。
ドイツ人哲学者であるハイデガーは、かつて、機械の発達により人々は没個性的な傾向を強め、死を忘れて生きている,そのままでは、人々は生産のための材料として利用されてしまうと警鐘をならした。
思えば、街に貼られる広告やポスターの根本は、宣伝のため、利益のためである。まさしく人々が生産のための材料として利用されていて、そこには最早、対人関係における顔の空気、緊張感なんてものは、必要がなく、無いものとされている。
ピカソは生前、肖像画が出てきたら、おしまいなんだ、と言った。
恐らくこの本意は、絵と写真という領域において、先述したことと無関係ではないと思う。
つまり,顔そのものの感覚、これを蔑ろにしてはいけないということではないだろうか。
素通りを許さない、改めて注意を向けるような、見ているこちらを射るような顔。
たとえばフランシスベーコンの描くような、皮の剥がれた肉だけの顔とか、ムンクの打ちひしがれて、溶け崩れたような顔は、材料として使うには手に負えないような、生の人間の顔がある。
虚構の生活に慣れると,人は往々にして,だいじな顔を忘れてしまうものだと思う。
参照
・『〈想像〉のレッスン』,鷲田清一,2005年,NTT出版
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