つばめ

写真を撮っています。

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顔の不在について

人でごった返した地下通路を通って、もうどこに出てもいいや、とか思いながら適当な出口に続く階段を上る。 地下空気の冷たさが、一段ずつ、外の粘着質な温度と溶け合って、階段を登り切ると、変な欠伸がでた。 歩いてしばらく、横をホストの宣伝トラックが通る。知らない人が4人。 目を細めて、上のビル壁を見ると、たぶん、浜崎あゆみのポスター、そのすぐ横のビルでは、おおきな顔がおおきなポテトチップスを食べている。 大型モニターにも、バス停にも、いたるところに顔。 誰かと会うことは、必ずそ

    • 雑然

      大学生活も後半に差し掛かり、就活だ、インターンだと、大分騒がしくなってきた。 まるで学内が選挙区域にでもなったかのように、ビラがそこら中貼り散らかされているので、目を通そうと、何度か掲示板の前で立ち止まったりしてみたけど、押しつけがましくて、だめだった。 「先ず社会経験」とか、「下積み」、「弟子入り」、この類の助言を、助言とも思えない、そういうきもちになっている。 先日、『太宰治の正直ノオト』という本を読んだ。 それは大変正直にひねくれを綴った文章であったが、一つ安心さ

      • 夏休みの写真日記(もちにくいマグカップ,戸川純,他)

        noteを書く時は決まって、よし書くぞ、という気持ちで情報を集めて、意気揚々とキーをたたくし、書き終われば、心地よい疲労感に満足するけども、今迄の投稿を見返すと、拙い芸術論を、恥ずかしげもなくさらしているような、どうしようもない気持ちになる時もある。 まるで自分が、その道の先生でもあるかのように、意味や教養に富んだ(ようにみえる)内容を心がけてしまうからそういうことになるわけで、だから、唯空白を埋めるのみである、夏休み課題の絵日記よろしく,まったくの無意味、無内容極まりない

        • 曼荼羅のまち

          月に2、3回くらいは本屋を彷徨いて、気になる本を一冊買う。 表紙とか、タイトル、サイズ感など適当な判断基準で、今読むのに心地よさそうな適当なものを選ぶだけだ。 今回その一冊が偶々、細野晴臣の『アンビエント・ドライバー』という短編集であった。御茶ノ水にあるディスクユニオン、引き抜くのが大変なほどぎゅうぎゅうに詰めこまれた本棚に植わっていた。 はっぴいえんど、YMO、スケッチ・ショウ。 音楽家としてのイメージが強くって、細野さんが本を出していたことを知らなかったから、という

        顔の不在について

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        • 雑稿
          4本

        記事

          社会不適合者とは何か

          三か月ほど前に、「タトゥーについての個人的見解」と題したnoteを投稿した。当時と現在とで考えることの間にずれはないが、変化ならある。 実際に入れたということだ。 敬愛する芸術家の一人、阿部展也と詩人の瀧口修造による共作「妖精の距離」は鉛筆素画と詩からなる作品で、いくつか種類がある。 そのなかから「蝸牛の劇場」という題の画を彫ることにした。この画は、ヨーロッパの古典絵画のように写実的ではなく、何らかのモチーフがあるような作品ではない。 しかしその点で気に入っている。 特に

          社会不適合者とは何か

          荒木経惟とエロティシズム

          写真家は数多あれど、文筆家でもある人物となるとなかなか限られてくる。 写真と文章とでは、一見全く違う性質をもつ媒体であるようだけれど、実は凸凹の関係にあり、それはイメージの想起させ方に起因するのではないか、と私は思う。 写真は一瞬の具体的な場面が提示され、そこから音や匂い、温度などの感覚、撮影者の内情を視覚体験を通して我々に想像させることが出来る。一方で文字の連なりから感性的直感を通して筆者の心情、趣などを読者が読み取り、具体的な場面を立ち上がらせるのが文章ではないだろう

          荒木経惟とエロティシズム

          最近、絵にどきどきする(阿部展也の絵画についての所感)

          阿部展也(あべのぶや)という画家がいた。半世紀も前のことだ。 1913年から1971年の間、彼はその生涯において海外を渡り歩き、作風を固定することなく、変化させながら生きた。 作風の変化。それは思想の変化だけでなく、手段の変容まで含む。 つまり彼は画家であり、写真家であり、批評家であり、中世墓石彫刻の研究家でもあった。この掴みどころのなさ! フィリピンの戦い(1941‐1942)では陸軍に報道写真班員として徴用されたり、ワルシャワ、ニューヨークでは国際造形美術連盟の総会

          最近、絵にどきどきする(阿部展也の絵画についての所感)

          人の海/都会の珊瑚礁

          東京の写真10枚。 モノクロフィルムで撮ると、当たり前なのだけれど、白と黒の濃淡で映し出された人のシルエットとかゆらめくビルの光が形となって現れる。 その流線みたいなものが、人の歩き方も速く、街もどんどん変わる、生き急ぐ東京を撮るのにすごくあってるのではないかなと思った。

          人の海/都会の珊瑚礁

          マイ・ベストオブ・喫茶スナップ(1)

          私が無類の喫茶店好きであることは周知の事実であるに違いない。 何処へ行くにも必ず喫茶店を探し、時間を作って訪れることは自分の中で習慣化しており“当たり喫茶”を見つけるのは私の得意分野となりつつある。 そして一つ断っておきたいのは、近年のレトロ趣味とは全く別物であるのでネオン系の喫茶店は一切紹介せず、骨太な店舗だけを厳選したいということ。 そんな喫茶店探訪の記録からお気に入りのスナップを逐一紹介させていただくのがマイ・ベストオブ・喫茶スナップである。 第1回は以下4店舗。

          マイ・ベストオブ・喫茶スナップ(1)

          なんでもない写真に見る、シュルレアリスム的性質

          無意識で、何か特定の行動を行ったり言葉を話したりしてしまった経験が皆誰しもあると思う。 そんな無意識という概念を初めて提唱したのは19世紀、オーストリアの神経病学者であるフロイトだった。 彼は意識よりも無意識のほうが、優れて様々な記憶や感情を持つにもかかわらず、普段は意識のもとで抑圧されていると考えた。 時たま、眠っているときに夢を見たり不意に何かをしてしまうのは(幾分屈折した複雑な関係ではあるが)その人の純粋な思いの表れであるというわけだ。 この思想がシュルレアリスム

          なんでもない写真に見る、シュルレアリスム的性質

          タトゥーについての個人的見解

          小学校高学年頃から自己肯定感の低さを覚えた、それは自分の外見に対しての自信の無さから生じる感情であることは認めざるを得ない。 特に自分の鼻筋の低さや荒れやすい肌に対してのコンプレックスはちょうど20歳になった現在も心に深く根を張り、不特定多数の人間が往来する街を歩く時でさえ「見られている」と一度意識してしまうと顔を覆って逃げ出したくなる思いになる。 写真を撮ることには心血注ぐことができるのに自分が撮られる側に回ると逃げだしたくなるとは何事か。 撃っていいのは撃たれる覚悟が

          タトゥーについての個人的見解