見出し画像

社会不適合者とは何か


三か月ほど前に、「タトゥーについての個人的見解」と題したnoteを投稿した。当時と現在とで考えることの間にずれはないが、変化ならある。
実際に入れたということだ。

敬愛する芸術家の一人、阿部展也と詩人の瀧口修造による共作「妖精の距離」は鉛筆素画と詩からなる作品で、いくつか種類がある。
そのなかから「蝸牛の劇場」という題の画を彫ることにした。この画は、ヨーロッパの古典絵画のように写実的ではなく、何らかのモチーフがあるような作品ではない。

しかしその点で気に入っている。
特に何かを意味するわけでもなく、ただそこにあるだけでコンプレックスだらけの自分を好きになれるし、それが発する何らかのメッセージが自分の首を絞めることもない。
朝起きて、一瞬どきっとして、そのあとからじわーっと高揚する感覚がある。


付けていても馴染まないアクセサリーとかはあって、そういう経験からアクセサリーをつけるのが私はあまり得意ではない。
タトゥーだって、位置が一ミリでもずれたら一生後悔して馴染まないんじゃないかと、それだけ心配だったのだが、うまくいった。思うより自然に享受しているかんじがある。

しかしこういう話は当然ながら、折角の親からもらった体だとか、社会的に云々されるのが事実で、それは当然である。彫ってしまった人は自己責任だし、言い訳無用の態度でなければならない。

それは間違いのないところだけど、責められるとなると話は別である。
私の場合、自分が写真に写ることに対して自分を赦したいから入れたのだ。それは親からもらった体を大事にすることでもある。幼いころからの自己否定が、タトゥーによって少しでも希釈されることにかけていたので、今とても満足している。


加えて、彫るかどうか迷っている人の悩みの一つに、人当たりがきつくなるというのもあると思う。温泉、プールはダメ、就職先は選ぶし、場合に因っちゃ家族は悲しむし。社会不適合者の烙印を押されたも同然だと思うかもしれない。


でもそういうルールや、考え方の根本には功利主義がある。
社会はその上に成り立つがゆえに、死亡事故が起こると分かっていながら車を走らせるし、精神疾患を抱える者がいながら、会社の利益を優先して残業させる。


スマホが普及するもっと前、バブルの時を生きてきた多くの人々にとっては、大きくて堅牢な会社に入り、仕事をすることが目指すべき幸せで、安定だっただろう。当時,功利主義に則ることは,社会の上昇気流に押されて,お金も遊びも仕事も充実したものになることがある程度約束されることでもあった。

しかし今はそうではない。好きなことを探して、利己的に生きる必要がある。今はバブルではないというのは勿論のこと、SNSで他者の生活を見ることが出来るようになったのが大きいと思う。幸せで自由そうに見える他人の暮らし。実際はそうではないのかもしれないけど、携帯をひらけば直ぐに,自分と他者を比べることができる世の中。現代社会に適合することが他者と自分を必要以上に比べることなのだとしたら,好きなことやるような利己主義者、社会不適合者で結構である。

そういう訳だから、不適合だと指さされたときに、ああ、自分はまだ自分に忠実なんだなと思えてうれしい。


























この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?