
荒木経惟とエロティシズム
写真家は数多あれど、文筆家でもある人物となるとなかなか限られてくる。
写真と文章とでは、一見全く違う性質をもつ媒体であるようだけれど、実は凸凹の関係にあり、それはイメージの想起させ方に起因するのではないか、と私は思う。
写真は一瞬の具体的な場面が提示され、そこから音や匂い、温度などの感覚、撮影者の内情を視覚体験を通して我々に想像させることが出来る。一方で文字の連なりから感性的直感を通して筆者の心情、趣などを読者が読み取り、具体的な場面を立ち上がらせるのが文章ではないだろうか。
荒木経惟(アラーキー)は写真家であるが、そんな二つの媒体の補完性を、出版物を通し、説得力を持って語りかけている。
彼の写真集において二つの要素は混然一体となっているわけだが、特筆すべきは、彼の性分に因ってそこにエロティシズムが存在することだ。
1.写真のこと
先ず、写真について言えるのは、彼はとても正直に生きること、死ぬことに対して向き合い、その流れに身を任せながら情景や人(女性)を画角におさめているということだろう。
情景では、裏路地や人の集まる交差点、公園などが多く、散歩ついでに撮ったような風景写真が多い。東京の三ノ輪出身であることも所以して、東京は彼にとって安心できる場所なのだろう。著作において彼はこのように表現している。
なんで東京を撮るかって、東京は俺にとって子宮なんだよね。乾燥してない。“ぬくろみ”がある。
彼は70年代以降、ハイカラに移り行く東京を、ぬくぬく感の中で収め続けた。ただ写された街の姿の連続には、アジェをたたえた憂愁が感じられる。
彼の写真集では一頁のなかに何枚もの写真が詰め込まれ、レイアウトされていることもあり、かなりの枚数がアルバムのような纏まりをもって迫ってくる感覚がある。一枚で決めきるのではなく、枚数をもってして時間の流れを表し、厚みを持たせている印象がある。
そしてそれは風景だけでなく、人を対象とした写真でも同様である。
人物写真では、先述したように数多くの女性が登場する。
彼の撮る女性の写真は、たとえどんな光景の中でも、きっちりと焦点が女性にあっている(カメラのピント以上に、彼の目が彼女を見ている)。
そして、彼の書く文章にも通ずるところであるのだが、デートの写真とか、ヌード写真、性交中の写真など、情事を含むものが非常に多い。
とても主観的で、ダイナミックで、同時に衝撃的な内容ではあるが、ここから、カメラと彼の人生との距離が覗える。彼はシャッターを切ることが癖になっているから、日常とぴったり密着した(そこにはある種の芸術思想や、あまりに技巧的な部分とか、政治的なメッセージが入り込む余地はない)写真を前に、途轍もなく正直な印象を人は受け取るだろう。
ただ眼下の光景をおさめる。彼の言葉を借りれば、写真即人生を正面から実行し、体現しているのだと思う。
2.文章のこと
アラーキーの書く文章は兎に角、気障である。しかし、特別取り繕った気取りではなくて、髄から昭和のロマンティシズムがしみ込んでいる感じがする。そこに色っぽさがある。あるいは、飄々としているようで、詩人のように言葉の奥には沈殿がある。
各写真集において見て取れるところだが、『トーキョー・アルキ』(2009年)では、特に彼のポエジーが炸裂しているので、その中から幾節か紹介したい。
向こうに見える六本木ヒルズは将来の東京の墓標だな。男根ともいえる。お墓と男根のあいだに東京がある、なーんてね。
墓標というテーマを彼は頻繁に用いるが、それは高層ビルのたとえだ。直方体という形状の類似は言わずもがな、終身雇用という点で(現在では崩壊しつつある)、あるひとは骨をうずめる覚悟で働く場所が高層ビルである。そこで更に、彼は男根とも重ね合わせている。私の解釈では、男根は生殖活動において、種を蒔くという役割を果たすため、社会において利益を生み出すという意味の比喩ではないかと考えている。社会的利益はいずれ骨となる人間の活動によって産出されるもので、それらから東京は構成され、存在しているという意ではないだろうか。
やっぱり信号待ちはいい。みんな、何を待ってんのかね。もちろん信号変わるの待ってんだけど、でも何かを待ってんだよ。それで、そこに、その人の人生が凝縮されてさ。だから、待ってるときって、あるんだよなー、ドラマがさ。
わかる。横断歩道の対岸に見える人の姿は様々で、しぐさとか服装も含まれるけれど、やはり表情には凡てが表れていると思う。横断歩道につくまで歩いてきたこれまでの道のり、そこで足止めを食った時の感情、これから向かうべき場所。出勤する人もいれば、恋人に会いに行く人もいる、新作映画を見に行く人や、コインランドリーで山のような洗濯物を回しに行く人もいるのだ。
そろそろ暮れてきたね。たそがれ時は昼と夜の情事の時間だナ。
アラーキーのインタビューを見ると、彼はまるで寅さんのような調子で、軽快に、語尾の力を抜くように話す。したがって、カタカナの“ナ”とか“ネ”に語尾が変換されているのは彼の人相をよく表していると思う。
そして、昼と夜の色が互いに混ざり合いながら橋渡しをする黄昏を情事に見立てるとは、平気でぽろっとそういうことを言えてしまうのが彼の魅力だろう。
そろそろふたりきりになれるところに行こうよ。好きになっちゃった。信じられないって?嘘じゃないよ。というより、嘘こそ真実なんだよ。
嘘こそ真実とは何を意味するか、その真意は彼がインタビューで語っている内容から読み解くことが出来る。
ちょこっとさ、こう、おしるこに塩いれればもっと甘くなるとかさ、あるじゃん。豆腐には苦りとか。そういう刺激物というか、うそごと、演技を入れると彼女の魅力が出てくる。
演技っぽい顔、身なり、格好、場面を写した写真は全くの嘘である。眼帯をつけさせたり、紐で縛ったりして撮影し写るのは虚構にすぎない。しかし、それに拠って、写された人の見えなかった魅力が現れることがある。そしてその魅力は本当なのだ。彼にすれば、必ずしも真を写すのが写真ではないのである。
3.さいごに
以上紹介した限りでも、下町風情のあるアラーキーの思想が垣間見えたのではないだろうか。適当なのか丹念なのか、快楽主義なのか死を思っているのか、行ったり来たりしてつかみどころのない彼の姿勢は、時代の暗雲をヒョイと躱すようで痛快である。
天才荒木と自他ともに称するほどの写真センスを持つ彼だが、書き言葉、話し言葉も同様に、抒情詩的でつやっぽい魅力にあふれているのだ。