第30週:ケドシーム(聖なる者)
パラシャット・ハシャブアとは?→ こちら。
基本情報
パラシャ期間:2024年5月5日~ 5月11日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) レビ記19:1~20:27
ハフタラ(預言書) アモス9:7~15
新約聖書 ガラテヤ 5:1~26
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所)
『聖なる者』となるために
ヨセフ・シュラム
歴史的イスラエルの民に属する1人として、世界中の肉による同胞たちとパラシャット・ハシャブアを読み進めるというのは、何という特権だろうか。そしてイェシュアとその弟子たちと同様、安息日ごとにシナゴグで律法の書を読み学んでいると考えると、私は今でも童心に戻る。
聖なる者に、は聖書を貫く主題
さて今週のパラシャは私個人として、そしてユダヤ的にも聖書全体で最も重要な箇所の1つとして考えられている。
これはとても興味深い命令だ。
私たちは聖であるべきだと命令されていて、その理由は、私たちの神であり創造主、救い主そして教師、指導者・裁き主であるイスラエル/聖書の神が聖であるから、神の子たちである私たちも同様に聖でなければならない、というものだ。
あなたが聖となるべきなのは、あなたの神である主、私が聖であるから―
しかし多くのキリスト者たちはこの聖句をどのように咀嚼したらよいか、どのように実践したらよいか、理解しかねているようにも見える。そしてその理由の1つは、彼らの多くが福音主義やキリスト教思想という、抽象的な世界にとどまっているからだ。
聖なる者となれ―
では聖なる者とはどういうことか、どうすれば聖なる者になれるのか。
これに対するユダヤ人の見方はこうだ:
レビ記19:2から終わりまでが、聖い者になるための指示に割かれている。聖なる者となるというのはレビ記やトーラーの枠を超え、聖書全体を貫く主題の1つ。この戒め・命令は、新約聖書の中でも繰り返し出てくる。
新約聖書においてもこの章からの引用が複数あり、ユダヤ人だけでなる異邦人の神を信奉する兄弟姉妹に対して、どのように私たちがふるまうべきか教えている。人間として、神の子供として、父が聖であるように聖なる者になることができ、そうなるべきだというこの原則はなんだろうか。
これは私たちの霊的DNAという次元についてだ。メシア・キリストと私たちは共に死に、受洗によって新しい命の中に生まれた。こうして私たちの中には霊的DNAが内在しており、これは全能である神自身のDNAだ。神は私たちが、神と同様のDNA=聖さを持ち、それに従って生きることを望んでいるのだ。
問題は、どのようにするかだ。
ユダヤ的な聖書解釈の原則のひとつに、「原則が述べられた後に、詳細=戒めであればそれをどのように実践するかが述べられる」というものがある。それにレビ記19章を当てはめてみるならば―引用した2節の「聖なる者となれ」は原則だ。
そして同じ節には、私たちを(肉体と霊共に)造られた神が聖なので、私たちにもご自分のようになって欲しい、という原則の背後にあるロジックも明かされている。これは人と全く同じだ―
父親ならだれもが自分の子供に対して、自分のようになって欲しいと願うものだ。
そして原則を得るための条件・そのための実践の第1ステップは3節、
あなたの母と父を敬う
主の安息日を守る
この2つだ。
全ては家族そして周囲から
世界のどこにでも通用する、普遍的な金言で『非常に良いこと』を言っている。しかしここで興味深いのは、父ではなく母が先に来ていることだ。西洋をはじめ一般的な感覚では、最初に父親が来る。しかし神・聖霊は、トーラーを通じてあなたの母と父を敬えと命じている。
この3節の母・父への敬意、そして安息日から私たちが理解する原則の1つは、「聖なる者になるための第一歩」は家庭から始まるということだ。安息日と言うとユダヤ人と接点のない兄弟姉妹の多くは、「仕事を休む日」を想像するだろう。それも正しいがユダヤ人にシャバット(安息日)とはどんな日か、と聞けばそれと同じぐらい「家族の日」という答えが返って来る。
信仰全体に言えることだが、聖なる者になるための最初の条件は霊的に健全な家庭環境だ。
イスラエルをはじめ現在ほとんどのユダヤ人が西洋世界の中で暮らしているが、両親や家族との敬意を含めた関係・連帯感は欧米諸国の感覚とは一線を画している。もちろん私たちは先祖を崇拝はしていないが、先祖に対するリスペクトはアジアのメンタリティーと通じるものがある。
しかしアジアにおいては儒教的なルーツである一方、私たちのルールは数千年に神によって書かれたトーラー(律法・教え)だ。また聖書の世界観は、神と人が別の次元に別々に単独で存在しているのではなく、常に相関関係だ。したがって神に仕えるためには、人に対して正しく仕え(関係を築か)なければならない。私たちは家族や隣人、同胞に対しての接し方によって、神を崇拝しているのだ。
神はもちろん私たちの内にも居るが、視覚的には遠く離れた天におられる。それとは対照的に、隣人や両親・兄弟姉妹は私たちの近くに目に見える形で居る。ある種私たちの信仰は『人間が中心』だ―
これは私たち人間を至高のものとするという意味ではなく、私たちの霊的な信仰体験のほぼ全ては人を通してのものであり、私たちが神を感じ体験している時においても、多くの場合はそこに人の存在がある。
もちろんどれだけ人に対して柔らかく接し、倫理的な人として愛されていても真なる神への信仰がなければ意味がない。しかしどれだけ豊かな信仰と聖書の知識があったとしても、人に対して正しく向き合えていなければ、それは正しく本当に豊かな信仰ではないのだ。
「聖なる者」になるために
親への畏れ・敬意や安息日に続く、3つ目の「聖なる者」になるための戒めはこれだ―
前の3節と同様、この命令の後にも「わたしはあなたがたの神・主である」という言葉が付随している。しかしこれは全てに付いている訳ではないので、これらの戒め・教えは他と比べるとより重要で重いものであることが分かる。
ただ単に「~せよ/してはならない」という法的文言を続けるのだけでなく、「私はここにいて、あなたがたを見ている」と、神がまさに文字となって顔を出す。私はあなたが何をしているのかはもちろん、あなたの心の中も知っているのだ― とまるで語っているように。
偶像とは、人がそれを造ったことにより神自身を隅に追いやってしまうものを指す。私たちは定義上は偶像崇拝者ではないが、教会に行き主を礼拝していたとしても、心の中に偶像を作り、神を隅に追いやってしまうことがあり得る。
霊的に悪い習慣や何かしらの中毒、またその他隠された罪があるならば、それらは偶像になり得、神を私たちの中から追い出してしまう。
また9~10節に目をやろう。
ここには農業における倫理観についての戒めだ。自分の土地で収穫を行うとき畑の隅々まで、または落ち穂や落ちた実までを収穫してはならない、というものだ。ここにも「私は主、あなたがたの神」とあり、重要な戒めであることが分かる。そしてここに、聖書的な貧しい者への寄付・助けをするときの方法がある。
まず、貧しい者を助けることは義務だ。そしてあなたが畑の実りをもって貧しい時を助ける際には、全てを収穫しそれを袋に詰めてわたしてはならない。貧しい人々のために畑の縁の部分や落ちた実を残しておき、彼らが自分で来て収穫できるようにしなければならないのだ。これは恩着せがましく人道支援をするのではない、聖書的『粋な助け方』だ― 畑の主は誰を助けたかを目にすることはなく、お礼も言われない。そして助けられる側は畑の主人に頭を下げ、地に伏してお礼を言う必要もない。
主人が畑から家に帰った後に、貧しい人々がこっそりとやって来て残っている収穫物を集めるのだ。
そしてこの人知れず寄付・助けをすることは倫理的に素晴らしいだけでなく、イェシュアの教えでもある。イェシュアの「施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい」との、有名な教えだ(マタイ6:3)。
彼の教えはこの畑の隅を残し誰にも知られないように施せという、トーラーの教えをさらに洗練させたものだ。
このようにお互いが匿名でひっそりと施し、助け合うことで当時の農業社会は社会的にもうまく機能し、それを行った人々にとっては祝福にもなっていた。
私たちのほとんどは今や農業社会ではなく近代社会という、個人主義的な環境に身を置いている。そんな私たちは教会やコングリゲーション・シナゴグなどの霊的群れとして、この聖書的精神をしっかり守るべきだ。
黄金律
そして19章の中でも最も有名なのが、18節そして34節にある「隣人そして寄留者を、自分自身のように愛せ」だ。
この規則は新約聖書の中にも何度となく繰り返されており、ユダヤ教だけでなくキリスト教でも黄金律になっており、誰もが知っている聖句だ。パウロはローマ人への手紙の最後、また福音書や他の書簡にも出てくる。隣人を自分自身のように愛し、主を愛すること、律法全体と預言者(=イエス当時にあった聖書・神の言葉)はこの二つの戒めにかかっている。まさに、聖書を一言で表したものだ。
この言葉に関するユダヤ的解釈は、「あなたは隣人を愛せるほど、充分に自分自身を愛するべきだ」という、少し変わった理解だ。「自分自身を愛すように他人を愛せ」と言われれば、一般的な感覚では愛のベクトルが自然と他人(隣人)に向く。しかし自分を十分に愛すことをしなければ、どうして他の誰かを愛することができるだろう。あなたの配偶者や子供でもそうだ。自分を愛する程度の愛の質、アガペーを十分に高めることにより、その豊かな愛を『隣人への愛』に移行することができるという、論理だ。
そうすることにより、自己肯定感が増して自身にも良い流れが起こり、そしてその愛は周りへと波及し、あなたの生活の共同体の中に良い火がどんどんと大きく、広がっていく。
そして少し専門的に言うと、イェシュアやパウロがこの聖句を最も重要な戒めとしている事実は、彼らがパリサイ派の精神を脈々と受け継いでいる1つの証拠になっている。イェシュアの前に、この聖句に着目し「最も重要な戒め/戒めを凝縮させたもの」と教えた、偉大なラビが居た― 大(偉大な)ヒレルだ。
彼はイェシュアの1世代前を生き、パリサイ派の中の主要学派である「ヒレル派」の創始者となった。
そんな彼はユダヤの賢人で初めて、「隣人を愛せ」という戒めとシェマ・イスラエル(聞けイスラエル、申命記6章)にある「心・精神を尽くして神・主を愛せ」という、2つの「愛せ」という戒めを結び付け、全てのトーラーをまとめた戒めとして教え始めた。
そこからイェシュアは、パリサイ派内のヒレル派の流れを汲んでいたことが分かるのだ。
私たちの主でありメシアであるイェシュアは、このトーラー、そしてそのうちの1つは今週のパラシャにある、2つのルールを私たちに課されている。この神の教え(トーラー)を2つに凝縮させたというは単純なように聞こえるが、実質的にはより困難な状況に置かれている。
クドシーム(聖なる者)、そして神の子供として相応しいように、共にさらに神の言葉を読み続けて学び、この2つの戒めを守ることができるよう全力を共に尽くそう。
最後に私が皆さまに伝えたいのは、今週のパラシャにあるレビ記19:32だ―
私は白髪で77歳の老人。
皆さまから「先生、先生」と敬われたい訳では決してないが(笑)、皆さまよりも少し前に信仰に至ったイスラエル・ユダヤ人ビリーバーとして、兄弟姉妹のために少しでも力になれればと思う。
日本の皆さまのうえに、豊かな週末があるように。
シャバット・シャローム!