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掌編小説「アイ・フィール・ファイン」


 それは僕が大学生で、夏休みに軽井沢の老舗のパン屋で住み込みのアルバイトをしていた時のことだ。

 一緒にアルバイトをしていた相棒は休憩時間で、近所の喫茶店にお茶に出かけている。僕ひとりで店番をしていた客もまばらな昼下がりに、ひとりの外国人の男が店にやって来た。

 Tシャツにハーフパンツ。足元は雪駄履きで、やや斜めにかぶった麦わら帽子から茶色い髪をのぞかせたラフな格好。そして丸い眼鏡をかけた中年の男だった。

 土地柄、外国人の客は珍しくはないが、僕は英語が苦手だし、話しかけられてもうまく対応する自信はない。そんなわけで、なるべく目を合わさないように男の様子を横目でうかがっていた。

 男の容姿は軽井沢の上品なイメージにはそぐわないものだったかも知れない。しかし、頬を指先でボリボリかきながら棚に並んだパンを品定めする男の醸し出す雰囲気は、不思議な魅力を僕に感じさせた。それはまさに品格のようなものだった。なにを着ようとも、どんな格好をしようとも、いやになるほど様になってしまうある種の人間だけが持つ品格。たぶんそんなものだろう。

 男の鼻筋の通った横顔と丸い眼鏡が、僕にある人物を朧げに連想させた。僕はこの男によく似た人物を知っている。けれどそれが誰だか思い出せない。もちろん実際に会ったことはないが、写真やらなにかで見たことがある。ただ、あまりにも遠い存在であるため、それ以上を想像することに僕の思考が追いつかないのかも知れない。

 そんなことをグズグズ考えているうちに、男はいくつかのパンを籠に入れ、レジにやって来た。

「いらっしゃいませ」

 僕がそう言うと、男は英語でなにかを話しかけた。僕には彼の英語は分からなかったが、言っている意味は不思議と分かった。

「調子はどうだい?」

 彼はそう僕に訊いたのだ。

「調子はいいです。ど、どうも・・・サ、サンキュー」

 僕はしどろもどろに答えた。

「そいつは良かった」

 彼は英語でそう言った。そう僕には聞こえた。そのとき彼と目が合った。丸い眼鏡の奥の彼の目をまじまじと見て、僕は彼が何者であるかをはっきりと悟った。僕の鈍い思考が、ようやく答えに辿り着いたのだ。そのとたん、雷に打たれたように僕の全身に電流が走った。

「アリガトウ」

 パンの入った紙袋と釣銭を受け取ると、彼は日本語でそう言って店を出て行った。僕は放心したように立ち尽くしていた。

「もしもし、ちょっとお兄さん、これくださいな」

 いつの間にかレジの前に立ったマダムからそう声をかけられて僕は我に返った。

「ちょっとお待ちを」

 僕はそう言い置いて店を飛び出した。人混みで賑わう大通りの彼方に、ママチャリに乗った彼のうしろ姿が見えた。ほんの一瞬ではあったけれど、彼と同じ空間で同じ吸気を吸っていたことが、僕には奇跡のように思えた。

 そして僕は、遠ざかるその姿に向けて呟いた。

「アイ・フィール・ファイン」

 

 数年後、彼はニューヨークで凶弾に倒れた。
 世界が喪に伏した。



              ー完ー

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