人の命は尊いのかが分からない話
人の命は至上の存在か。
というテーマは、我々人類の頭をこれでもかという位に捻らせてきた難しい問題だと思う。
某ニュースにて、「障害のある者に安楽死を」という加害者がいたわけで。その主義主張は、一時期社会に波紋を呼んだ。この画面の向こうにいるアナタは、それに賛成かもしれないし、反対かもしれない。
ちなみに。私は賛成だったりする。
きっと、こんなことを書いたら「冷血鬼」とゴミを投げられそうだ。
でも、ゴミを投げられても、きっと私の思想は変わらない。だから、どうしてそう思うのか、説明しようと思う。
さとり世代兼ゆとり世代として育った私の周りでは、生まれてからずっと「素晴らしい人間か」で物事が判断されることが多かった。
それこそ、成績表に始まり、受験に、就職活動に、お仕事に。あらゆる場面で、私たちは点数を付けられ、駄目な人間は振いに掛けられてきた訳だ。ゆとり世代の代名詞でもある、挨拶や授業への姿勢を評価する「絶対評価」なんてとりいれて、こぞって人間性まで点数を付けられてきた。私たちは、廊下で教師とすれ違う時に浮かべる表情にいたるまで、優劣で振り分けられた世代だ。
そうして、最後は「ゆとり世代」という不良品のラベルを貼られた世代でもある。
そんな世代に、「生きているだけで尊い」と言われても、ちゃんちゃら馬鹿らしい空想に思えてしまうのだ。
私たちは生まれた時から点数を付けられてきた。そういう価値観が、それこそ神の教えのようにべったり染みついている。
使えない人間へ陰口をたたく人間なんて、一日一回は軽くお目にかかれるのではないだろうか。一方で、万人が生きているだけで素晴らしいと説く声は、アイスのあたり棒ばりにお目にかかるのが難しい代物だと思っている。
だから、使えない人間は捨てられて当然なのだ。
そういう価値観の中で、そういう選別をされて、そうやって育ったから。
理屈で「命の尊さ」を分かっていても、本能がどうしても否定する。使えない人間は、死んでしまっても構わない、という囁きが聞こえるのだ。
誰か私を助けてほしい。
こんな考えでは、私もいつか狂ってしまって、人の役に立てない人間に危害を加えてしまうかもしれない。
誰か私を助けてほしい。
命の尊さを教えてほしい。
使えないと、役立たずと、馬鹿と、愚図と、学校や会社で罵られている人でも、生きているだけで尊いのだと教えてほしい。