ボスニア紀行
ボスニアの首都サラエボに行った。
11月には珍しく白銀の世界がそこには広がっていた。
気温は、マイナス5℃を下回り、私が想定していた気温を15℃ほど下回った。
だが、そのわけは着いた時に判明する。
サラエボは、海に面しておらず、四方を300m級の山に囲まれ、森が少ない盆地だったのだ。鉄と同様に熱しやすく冷めやすい性質を持った土地柄のために、冷凍庫にいるような寒さになる。
さて、白銀の世界の中に、大小さまざまな建物が建っていた。ビジネス街は、盆地の中央に立地しており、日本と同じような高層ビルが建っていた。しかし、大きいものは、2、3棟にすぎす、他は、日本のアパート程度の大きさだった。
また、ビジネス街から少し外れた商店街は、長屋が軒を連ねたような平屋のお店が多かった。主に喫茶店、土産物、レストランが所狭しと並んでいた。
そんな街並みの中の、観光案内所に向かった。サラエボの歴史探訪ツアーを申し込んでいたためだ。
ツアーは、てっきり徒歩かと思っていたが、車でサラエボの歴史的要所を一周するものだった。運転手は、四角い黒ぶちメガネをした恰幅の良いおじさんだった。
サラエボの歴史を語る上で外せないのが、1992年~1995年にかけて起こったセルビアとの独立戦争である。そのガイドも若き頃に徴兵、出兵した経験があり、幸いにして心に大きな傷は追っていないそうだが(むしろ仲間に囲まれて楽しかった記憶もあると言っていた)、その遠くを見つめる目は、哀愁に満ちた目をしていた。
彼は、従軍後、平和活動を行い、数年前に歴史探訪ツアーのガイドになったそうだ。というのも、ボスニアでは、セルビア系とボスニア系(民族的にはほぼ同じ)が表面的な対立こそしていないものの、それぞれが自治区のようなものを持ち、国として一つにまとまりきれていないのが現状なそうである。
その証拠に、セルビア系とボスニア系の地域では、郵便システム、公共交通システムが異なり、つい最近まではボスニア系とセルビア系で学校が分けられたりもしていたそうだ。(宗教も違う)
そのように、国の中に大きな溝がある中で、民族融和路線の努力を続けていたそうだ。ただ、未だにナショナリズム(ここの意味は、民族的な意味合いが強い)の勢力が強く、なかなか思うような統合の道に進んでいないのが現状である。3進んで、2歩下がるといった具合のようだ。
日本でいう戦後30年というと、1975年である。沖縄が返還され、第二次高度経済成長期のバブル前夜である。最後の日本兵である小野寺さんがご帰還されたことも記憶に新しいころである。つまり、戦争の残り香が少し残っていて、それを経済的繁栄が内包しようとしていた時代である。
私は国は違えど、日本でいう1975年の世界観にタイムスリップしたような感覚になったのである。
確かに街は繁栄している。だがなぜか空気が重いのである。笑顔の裏に悲哀と憐憫と血生臭いにおいがするのである。戦後生まれ(1995年以降)の人たちには、屈託のない笑顔があふれているが、戦前生まれの戦争経験者(50代~60代)の笑顔は目の奥にかような空気を感じるのである。どろどろとしたある種の後ろめたさを背負って生きていくことを受け入れているかのようであった。繁栄と悲哀がまるで、コーヒーにミルクを入れたように混ざり合っているのである。
戦争が、終わったといえ問題が、決壊しそうなほど山積みになっているのがボスニアである。日本ですら、戦後80年にもかかわらず、先の大戦に関する諸外国との様々な問題を抱えている。このような問題だらけの平和という矛盾するようで、ギリギリの平衡を保っているのが、戦後の姿なのだと思った。
かような問題を抱えながらも、悲劇を繰り返さないように尽力されてきた先人達には頭が下がるばかりである。
日本では、そろそろ旧日本兵の方々が、お亡くなりになり、完全に資料のみが残る時代がやってくる。戦後100年も20年後に控えている。つまりは、戦争が遠い過去の記憶になってしまうのである。発展した日本では、戦争の空気をリアルに感じることは不可能である。それは、喜ばしいこと。
旅の醍醐味は、五感をフル活用して、様々なことを感じることにあると考えるが、今までの旅の中でこれほど鮮明に五感に差し迫られた経験はなかった。明らかに他のヨーロッパ諸国とは違うのだ。サラエボのあの鈍重な街の感覚は。
ツアーの最後に、ガイドのおじさん(同い年くらいの娘がいる)が、肩を叩いて、良い旅を!と言ってくれたことの重み(これからを生きる若者へのメッセージ)が、今でも身体に沁みついている。