読んでも読めない「春望」
人間の義務に種の存続の義務は含まれるのでしょうか。
人間に種の存続の義務があるとすれば、人間の種だけ守ればいいのでしょうか、それとも人間が種の存続の義務で守るべき種には自然の中に生きている他の全ての種も含まれるのでしょうか。
人間が自分達の種を存続させるために必要な酸素や食肉や穀物の種を存続させることも必要不可欠ならば、自然の種を守ることは人間の種の存続の義務に付随します。
しかし人間が生態系を離れて、自分達だけで種の存続を続けられるならば、人間のために自然を維持する必要は消えてなくなるのではないでしょうか。
灌漑農業は人間が初めて、自然のコピーに成功した人間生産の自然でした。古代人は自然の中で生き残るために狩りの腕を磨いて滅びましたが、文明人は農業や家畜や井戸を設計して人工の都市に暮らすようになって生き残りました。
杜甫の「春望」は、都市国家が戦争で滅んでしまったあとの様子を自然と比較して詩った悲しい詩です。
国破山河在 国が滅んでも山や河は残っている
城春草木深 城は破壊されたままでも春になって草木は生い茂りはじめた
感時花濺涙 心が悲しんでいれば花を見ても涙が流れる
恨別鳥驚心 別れた家族を思っているので鳥の鳴き声にすら心が揺り動かされる
峰連三月 戦争で燃え始めた火は三月たっても燃え続けている
詩の前半では、杜甫の戦争で痛んだ心と、戦禍に巻き込まれても無事な自然の様子が詩われます。
杜甫が戦争で負った心の苦しみが伝わりますが、国家と自然、城下と草木、心と花、家族と鳥、燃やされる戦場と燃やす火が比較できて、人工物の呆気なさと自然の力強さが読み汲めます。
家書抵萬金 家族からの手紙は大金ほどの価値がある
国が滅んで、配達が消えて、国道が消えて、大金も焼けて、貨幣制度も無くなれば、家族から手紙が届きようもない
白頭掻更短 渾欲不勝簪 国が消えてから髪が白く薄くなって簪が刺せない
国が滅んでから髪が薄くなっても、身分も消えているので簪が刺せなくても困らない
詩の後半には、戦争で人間が都市機能を破壊し尽くしたことが詩われています。詩の前半で詩われた健やかな自然と比較されて、戦争の痛手がより深く伝わります。
比較された自然と国は、全く違う世界のように語られています。
人が作り上げた国は人間同士が争って滅ぼされても、自然は戦禍になっても山も河も草も木も鳥も炎も生き伸びた。人の世界が滅んでも自然が影響されて同時に滅ぶことはなく、自然が健やかであっても人の世界が影響をうけて同時に健やかになることはない。自然には自然の世界があり、人には人の世界がある。
「春望」は、都市生活と自然生活が隔絶された世界観を詩っている詩にも読めます。
国家を純正の人間社会と考えていた、古代中国の偉人達の考えになぞらえて読むと、杜甫が8世紀の長安でなにをのこしたくて「春望」をよんだのか、ますますわからなくなります。
「春望」を杜甫の心で読むために、長安で暮らした人の心をもてば「春望」が正しく読めるのでしょうか。現代は、社会が自然と共存する人間社会を目指す一方で、宇宙に出て新天地に新しい都市機能を設立させようと計画し始めている時代です。人間社会をこのまま自然環境で維持するのか、サイバー世界に移すのか、あるいは宇宙に拠点を作るのか、世界中で自由に議論がかわされている現代では、自由に読める詩歌ほどいまの感覚に当てはめて柔軟に読み過ぎてしまうのかもしれません。
「読んでも読めない「春望」」完
©2023陣野薫