【「野放し」も悪くはないんじゃない?】


 「野放し」じゃあ子どもは育たない。

 そんなことを言われて、んー・・・。

 僕がやっていることは「野放し」なのかな。

 でも確かに今の見た目は、完全に野放しだし、一向に集団の静直速度はゆっくりで、「野放し」と言っていただいても仕方ないのかな〜。

 まあ仕方ない。

 でも、今はもう僕が何を言っても聞かない状態なのに、よく維持していると思うよ。だって指示したって、1ミリも聞かないんだもん。
 これは、4月からの僕の振る舞いがそうさせたものだから、今更どうにもならない。
 
 言って聞かせることができない状態はめちゃくちゃ鍛えらえる。

 言えば聴くができない。

 聴いてくれる子をいかに動かして、集団に広げるかというゲーム。

 指示が入るのなら、確かに段階を踏んで行う戦略的なアプローチは必要かもしれない。
 来年度、どうなるかわからないけれど、その辺りを誤解をされず、子どもたちもエラーが起こらないように上手にやれたらいいな。

 とにかく今は、見た目は野放し?。
 成長過程中の成長過程。
 
 でもやっぱり、信じて任される環境を与えることで、こっちの想像を超えてくる行動が出るんだよな〜。

 今日は理科から始まり。電磁石の実験。

 電磁石にもS極・N極があるよね〜ってやつ。

 確かに固定化はあるんだけれど、自分から休み時間は関わらないような仲間と関わろうという動きが見られる。
 そして、『学び合い』のいいところなんだけど、前回の実験が上手くいかなかった仲間は、そこから挑戦できる。戻ってやり直して、今日の課題にむかえる。
 
 見ていても、前回上手くいかなかったところからの続きをするメンバーが多い。
 スムーズに進んだ仲間は、自分が失敗した経験をもって関わる。だから、「あ〜これね、やすり足りてる??」とか、自分が経験した失敗を生かしてアドバイスをしている。

 こっちが、おしゃべりを禁止したり、個人作業にしたりしたら、こういった素敵な場面に出会わないんじゃなかなと思う。

 教科によって、頼る頼られるの関係も違って、おもしろい。

 理科になると、両脇に仲間を座らせて、いつでもアドバイスできる準備を整えている。仲間の組み立て具合を眺めて、修正したり、自分のと見比べたり。ものすごく考えているなって思う。

 助け合う経験を本当に毎時間やっているものだから、少しずつ他のところにも出てきて、モーターカーの実験道具も、自分のだけではなく、みんなのを配ろうっていう動きも出てきている。

 2時間目は国語。これは酷かった。

 昨日算数のテスト後に振り返ったことが何も意識されていない。
 全く振り返って満足している。

 「先生のは、どうにも理解ができないんだけれど、昨日テストの後に今後の『学び合い』はこうするって振り返りをしたよね?
 1人で考える時間をつくるとか、友達のところにいくのではなく、分かる人のところに行くだとか、サボっていたら、やろう!と言える人になるとか。
 これをつい昨日振り返って、今日もう同じミスを繰り返していることが疑問で仕方ない。
 
 振り返ることは誰にだってできる。
 振り返った後に行動して、初めて価値が生まれる。

 振り返ることは簡単だよ。
 でも行動にしなければ何も変わらない。

「こうすればよかったな」と言える人、思える人なんていくらでもいるよ。でも行動しないと何も変わらない。また同じミスを繰り返し、「ああすればよかったな」と後悔する。

 いつも「ああすればよかったなあ」と思う人生が、先生は幸せだとは思わないよ。

 その間に、行動している人に置いてかれ、いつもその人を見ながら、「自分もこうすればよかったな」「今度からはそうする」なんて後悔して、行動は変えない。

 周りはみるみる成功したり、成し遂げたりする。それを見ながら、その人だからできるんだと妬み、嫉み。自分は後悔だけをしながら、それを眺める人生が本当に幸せかい??

 まあ「楽」ではあるけどね!!

 でも、目先の楽より、後の楽だ。

 振り返りから行動に起こせば、改善され、それができれば、達成感も味わって、やりたいこと成し遂げて、失敗してもその分たくさん成功して。

 こっちの人生の方が幸せだと思うんだ。
 みんなには幸せになってほしい。

 次の『学び合い』期待しているよ。」と話をした。

 ごりごりの自分の価値観だったから、どうかと思ったけれど。

 でも、振り返り、改善できるような自己調整力のある人であった方が、成功も増え、頼られ、感謝され、実現したいことも実現する。
 そんな幸せな人生であってほしい。
 後悔だらけで終わってほしくない。

 次の算数は、スタートから違う。勢いがあった。

 課題に対する回答は、甘々だれけれど、全員達成に向かおうって感じがあった。
 振り返りを行動にしようという意識が伝わる。

 例えで、山の話をした。

 「何分までに、全員達成という山の頂上に、全員がたどり着けばいい。道はそれぞれでいいから、30分後全員が頂上で会おう。そのために何ができるか考える。歩く気のない仲間がいたら、励ませばいい。かついでやればいい。1人で無理なら、2人、3人と仲間の手を借りて、登らせてあげればいい。」と。

 
 もっともっと、上位2割(毎時間算数の前は、内容を聞きにきて、職員室にもきて、課題を確認する。そして、休み時間に予習をする子たち)以外の仲間がいかに「動く」かだなっと思った。

 全員で達成するには、教えてもらって、分かった人が、そこで満足せず、またそれを誰に広められるかと動くことが大切だと。

 5・6時間目は昨日に引き続き6年生を送る会への調整。チーム同士が協力して、プログラムをつくりだしていた。

 全体進行、遊び、花のアーチチームがそれぞれ分業して、プログラムを作っている。

 色紙が完成にていなければ、完成させるように仲間に依頼する。

 手が空いたら、主体的に飾りの折り紙や花つくりに移っていく。

 手伝うことある?と自分から声をかけ、折り紙の折り方をタブレットで調べるといいことを仲間から聞き、参加していったのは特別支援学級の子だ。

 5年生の代表挨拶を決めるときの話し合いは、自然な会話。

 「代表の挨拶する人がほしいんですけれど」と担当の子。
 
 それだけでは、いまいちみんなピンときていない感じ。

 何度か同じような説明をしたが、伝わっているような伝わっていないような。「まって、どうゆうこと?」と質問が飛ぶ。

 それを聞いて、別の仲間が、「1から5年生が、それぞれ送る言葉を代表で1人ずつ話してほしんだって!それで、5年の代表を決めたいんだけれど、どうしますか?ってことだよね?」と言い換える。

 それを聞いてまた別の仲間が、「要は、誰かやりたい人いい??ってことね!」と続ける。

 「考える時間くれるなら、僕やります!」と立候補する仲間が出る。

 「みんなどう?」担当の子。

 「OKでーす!」と流れて決まった。

 ものすごく自然な対話だったから思わず録画した。

 自分事として考え、みんなに伝わるように言い換え、それを自分の言葉で解釈し直す。
 インプットとアウトプットが自然で豊かな対話だった。

 また、ムービー作成では、初め6年生が卒業式で歌う曲を取材してきて採用していた。しかし、自分たちの思いものせたいということで、一曲は5年生が選ぼう!となったらしい。

 そして、3曲候補を出し、「みんな集まってー!」と集合させる。

 そして、「5年生の思いものせたいので、1曲をみんなで決めたいので、協力してほしいです。3曲流すので聞いてもらっていいですか?」と。

 ミラーリングをして、画面収録をそしたものをメモに貼り付け、比較しやすくしたものを映し出し、共有。

 Y O A S O B Iさんの「アンコール」「ハルカ」、S Gさんの「僕らまた」の3曲が流された。

 
 やっぱり、僕が話すのなんかより、仲間が集合をかけ、仲間が説明し、仲間が提案するものの方がよく耳を傾けるなあ。

 別に、メモへの貼り付け方も画面収録も事細かに教えたことがない。
 
 自分たちで機能を見つけ、試し、みんなに共有しやすい手段として活用していた。

 「野放し」にしたから、引き出されたのかな。

 「野放し」も悪くはないんじゃない??

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