【それが「分かるため」に最善な方法か?】
なんだかすごく不安な気持ちでいる。
先週まで当たり前にできていたことが、できていないとなると焦ってしまう。もしかしたら、先週先々週は、3学期から新たに頑張ろうマジックだっただけで、集団としては成長していなかったのかと不安になる。
成功にはいろいろな要因が絡んでいるため再現性は難しいところであるので、失敗したときの原因を思い出す。
1学期はこの焦りとともに、「個」を変えようとしてしまったことが失敗である。また感情的になったことも失敗の要因。
この2つは必ず避けなくてはならない。
遊び出すこと、集団で仲間に嫌がらせをすること、iPadのルールが守れないことが多い1日だった。
遊ばない方がいいことも、嫌がらせがダメなことも、ルールも守らなければならないことも理屈では分かっている。でも、できないのは、その子にとっても「みんな」がそうしているからである。
どうすれば、そういった集団文化が壊れるのだろう?
おそらく、ちゃんと守ることができる仲間が、その集団に加わることだと思う。その集団の中にも、今自分がしていることが損だと思っている仲間はいると思われる。
では、ちゃんとできている子にとって、間違った集団文化で過ごす仲間に関与するメリットはなんだろう。
うーん、正そうと努める姿を他のメンバーは見ていることかなと思う。誠実にどんな相手とも関わろうとする仲間と一生のつながりはもっていたいと思うものだと思う。
また、ルールが守れないこと、嫌がらせがあること、遊び出す子がいることがあるクラスの一員であるのが得だと思うか?という話もある。
絶対に、嫌がらせはなく、遊び出す子も出ず、ルールも守れる集団のメンバーである方がいい。少なくとも「まし」である。きっと上位層はそのことを理解しているとは思う。
でも具体的な行動が思いつかないのか、勇気が出ないのか・・・。明日は、例示程度は示してみようとも思う。
今日は、「本当に分かること」を目指すならば、仲の良さをこえ、男女を超えて関わることがごく自然であることを語った。
でもあまり姿は変わらなかった。
しかし、今日の中で少しだけ、子どもたちの動きが変わったタイミングがった。
それは、「なぜその方法が最善だと思うか説明を求めることがあるかそこは気をつけてね?」という問いかけからである。
授業の目標は、「内容が分かること」そして「多様な人と関わる力を身につけること」である。
その目標達成のために、なぜ今あなたが選ぶその方法が最善だと思うのか説明することを求めた。
「どうして、始まりと同時に仲のいい人のところに行き、関係のない話で盛り上がるのが授業の目標達成にために最善だと思うの?」
「どうしてふざけるあの人のところに行くことが分かるために最善だと思ったの?」
そんなことを聞いてみた。
全体にも聞いてみたし、個人でも疑問におもったら素直に聞いてみた。
するとやはり答えられない。
そして「目標」がずれていることに気が付いた。そんな話をすると、少しだけ動きが変わったように思う。
教師は、「目標」または「目的」をブレずに示すことは、本当に大切だと思った。
この「最善な方法であることを説明してみて?」という声かけは、子たちに「目標・目的」を再度捉え直すための手段になる。
この「目標・目的」がずれないことが立ち歩きのある『学び合い』には本当に大切なのだと再確認した。