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ジュークボックスとカルチャー|原点回帰すべきアナログな楽しみ方

ジュークボックス。20代半ばの我々には聞き馴染みのない言葉だろう。
それは、1920年代から1960年代に流行し、内部にシングルレコードを内蔵した自動販売機の一種である。

" AppleMusic "や" Spotify "など、どこでも高音質な楽曲がサブスクリプションで聴けるようになった今では、その古き良きカルチャーアイテムは音楽ごと完全に廃れてしまったと言っても過言ではない。

そこで今回は、JUKEBOX (以下、ジュークボックス)の役割と、関連するCulture(以下、カルチャー)を中心に、サブスク全盛期にあえてアナログな聴き方を選択する意味について考えていこうと思う。

文化的背景など、基礎知識を網羅しつつ進めていきたい。備忘録的に書いていくつもりで、言葉足らずな部分もあると思うが、最後まで呼んでいただけるとありがたい。

01_ジュークボックスの語源

そもそも、ジュークボックスという用語は1940年代からアメリカを中心に使われてきた。
ダイナーのようなカジュアルレストランやギャンブルを楽しむ場を"JUKE JOINT"と呼んでおり、そこからの派生でJUKEBOXと呼ばれるようになる。

また、ジューク(Juke)は、ガラ語(南部黒人が使うアフリカ系の方言)で「掟破り、騒々しい、不良の」という意味があり、1940年代からアメリカで使用されてきた。

当時のアメリカは、アフリカ系アメリカ人の人権が昨今ほど叫ばれていなかったことを考えると、その後のカルチャーアイコンとなるジュークボックスの語源がガラ語だったというのは、大変興味深い。

02_アメリカで生まれたジュークボックスヒストリー

ジュークボックスの歴史は、1880年代まで遡る。

オフィシャルの記録としては、パシフィック・フォノグラム社の総支配人ルイス・グラスが、サンフランシスコのパレ・ロワイヤル・サルーンにジュークボックスを設置したのが起源である。

そのときはまだジュークボックスという名称ではなく、蓄音器と呼ばれていた。というのも、当時はまだ我々が現在イメージする音楽が流れてくる機械ではなく、単に人の声が聞こえる機械だったからだ。(当時は画期的な発明品だった。)

しかしそんな蓄音器も、1890年代には大衆化し、一般家庭にも導入されるようになると、目新しい機械ではなくなった。
差別化を図ろうとするかのごとく、公共の場では大音量でオーケストラやバンドのような臨場感が味わえる "phonograph parlors"(蓄音機パーラー)が出現し、硬貨投入式の蓄音器は衰退の一途を辿ることになる。

その数十年後、電子録音やアンプが考察され、50年代に隆盛を極めた硬貨投入式の音楽再生機ジュークボックスの基本スタイルが確立し、様々な場で音楽が楽しまれるようになった。

現在、ハードはジュークボックスであるが、タブレットやスマートフォンからインターネット経由で楽しめるデジタルジュークボックスも登場している。気になった方は、是非チェックしてみると面白いだろう。

03_ジュークボックスと50年代カルチャー

50年代のアメリカはとにかく凄かった。

ミッドセンチュリー(※発祥はイギリスという説もあるが爆発的に広まったのは50年代アメリカ)というジャンルを確立したインテリアをはじめ、スーパーマーケットマクドナルドホリデーイン(※モーテルチェーンの先駆け)が誕生した、まさにアメリカンドリーム全盛期。

「大量生産・大量消費」万歳!!といった具合で、カルチャー全体がそれを前提として作られていた。

アートも例外ではない。
50年代のアメリカでは、ポップ・アートが誕生し、アンディーウォーホルやロイ・リキテンスタイン、ジャスパー・ジョンが一躍有名になった。

一見、デザインソースに多少のアレンジを加えただけの作品ばかりだが、当時のアメリカを象徴するような「あるものはなんでも使え!作ったモノ勝ち!」感だけで作品を成立させているのは、当時のカルチャー全体の勢いが伺える。

04_ジュークボックスと50年代ナイトライフ

隆盛を極めた50年代。若者の夜遊びといえば、もっぱらナイトクラブだった。女性は、40年代後半にChristian Diorが発表した、女性的な形をイメージした「8ライン」といわれるスタイルを身にまとい、男性はロールアップしたデニムにオープンカラーシャツでキメる。

当時の映画スターといえば、" オードリー・ヘップバーン "や" ジェームス・ディーン "で、若者は映画や雑誌で見るスターに憧れた。そして、そのスタイルがそのままトレンドになっていったのだ。

1945年の第2次世界大戦以降、フランスではキール、イタリアではベリーニといったお国柄を反映したワインベースのカクテルが流行し、その影響に乗っかったアメリカでも、フローズン・カクテルウォッカ・トニックといった新しいカクテルが流行した。

70年代に起こるウォッカ、ジン、ラム、テキーラなどのホワイトスピリッツのブーム(ホワイト・レボリューション)に繋がる、甘味がありながらも、ライトな舌触りのカクテルが好まれはじめたのは、この時代からだ。

ジュークボックスから流れるオールディーズ(50年代~60年代の洋楽)の中でも、チャールズ・ブラウンはとりわけムーディーな雰囲気にしてくれたアーティストの1人に違いない。

甘く滑らかで洗練されたバラードが特徴的なスタイルは、のちに大活躍するレイ・チャールズにも多分な影響を及ぼした。

夜な夜なナイトクラブに通い、異性との交流を求めた当時の若者は、この音楽を聞くと青春を思い出すだろう。

流行のスタイルを身に纏い、カクテルを片手に談笑をする。その後ろでたたずむように流れるムーディーな楽曲は、紆余曲折ありながらも生き残ってきたジュークボックスから流れるものであり、それが彼らを生き生きとさせたに違いない。

まさに50年代ロマンそのものと言えるだろう。

05_再考すべき音楽との接し方

ここまでは、ジュークボックスの歴史と、それにまつわるカルチャーを紹介してきた。

最終セクションでは、デジタル時代を生きる我々が再考すべき、アナログ的な音楽の楽しみ方について、自身の学生時代を振り返りながら書いていこうと思う。

時間に余裕がある人は、是非読んだいただきたい。

学生時代、寮に入っており、帰省できるのは月2回だった。テレビも携帯も禁止で、漫画なんて以ての外。

敬意を込めて、寮を監獄と呼んでいたのだが、その監獄で自分たち囚人に唯一許されていたのが音楽を聞くことだった。

当時、自分は誕生日に買ってもらったiPod Classicで音楽を聞いていた。
今では笑われるかもしれないが、当時はパソコンにCDの楽曲をダウンロードし、そこからiPodに入れていたのだ。

しかし、如何せん月2回しか帰省できなかった。寮にいる間、聴ける音楽といえばiPodに入っているモノか、外出して買ってきたCD。

当然、学生の頃は頻繁にCDを買うお金もなく、寮にいる間どれだけ音楽を楽しめるかは、帰省したタイミングでTSUTAYAでアルバム5枚1000円という画期的なシステムを利用し、どれだけ曲を入れられるかにかかっていた。

1枚のアルバムで10曲強、5枚でおよそ60曲。それから、別料金で借りた好きなアーティストのシングルを、親に半ギレされながら帰寮時間ギリギリまでパソコンの前でインストールして、ワクワクしながら監獄へと戻る時間が楽しかった。

帰寮後、暇さえあればiPodとイヤホンを繋ぎ、部屋で1人没頭するかのように音楽を聴いていた。

タイトルがついたメインソングはもちろん、カップリングに入っている曲全てを飽きるほど聴いた。

たまに買うCDの表紙ジャケットは穴が開くほど眺め、歌詞カードやアルバム付フォトブックはボロボロになるまで読んだ。

リスニングを磨くために渡されたスピードラーニングを、渡されたその日に隅に追いやり、日本史の教科書なんてブックオフで新古品扱いされるくらい綺麗なままだった自分が、あれほどになるまで聞き込み、また読み込んだのは、後にも先にもCDだけだろう。

久しぶりに実家に帰省した時、自室にあるCDを手に取ってみた。すると、自然と懐かしい思い出が昨日のことのように蘇ってきたのだ。

その時、自分が学生時代にアナログ的な聴き方をしていたんだと気づいた。そしてそれは、皮肉にも、便利なサブスク型音楽配信サービスを利用することで忘れていた感覚だったのだ。

今日、サブスク型音楽配信サービスが普及し、いつでもどこでも好きな音楽が聴けるようになった。自分の好みの音楽はAIが選んでくれるし、好みの音楽を保存しておけば、曲名を覚えていなくてもアプリを開けば出てくる。
以前と比べて、多様な音楽に触れやすくなっただろう。

しかし、利便性が高まる一方でストーリーが失われているようにも感じる。形として残す必要がなく、圧倒的な量と高音質な楽曲に囲まれているせいで、古き良きアナログな音楽の楽しみ方を忘れているように思えるのだ。

コロナウイルスで引き続き外出自粛が叫ばれているが、こんな時だからこそ好きなアーティストのCDを買い、あえてアナログな聴き方で音楽と向き合ってみるのもいいかもしれない。

そこには、今まで見えてこなかった音楽の形があるのではないだろうか。

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