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お勉強の日

どんより曇った土曜日の朝、いつもどおりにルリナがわが家にやってきた。
週末は、ルリナとのお勉強だ。

私がコーヒーを淹れている間に、ルリナは自分からさっさと手際よくノートをひろげて勉強の準備をしている。
そんな姿を見ていたら、かつて私が塾講師をしていたときのことをふと思い出した。


若い頃に私が教えていた進学塾では、生徒達が皆おとなしくて、とにかく覇気がなかった。
トップ校受験のための特別選抜クラスだった。
授業が始まる前は、それぞれノートとテキストを揃えてシーンと静まり返っていて、あまり生徒どうしで仲良く話している様子もなかった。
私が教壇に立って生徒達を眺めると、無表情ながらもそれぞれの心境は手にとるように分かった。
ある生徒は、親からのプレッシャーに耐えて嫌々ながらも義務を全うしようとしている。
ある生徒は、もし合格しなければ人生が終わると信じていて、思い詰めて悲壮感に満ち溢れている。
ある生徒は、まるで懲役刑に仕方なく服しているような暗い表情で、電池の切れた人形のようにずっと同じ姿勢で座っている。
当然ながらそこにいる誰もが、私との学習の時間を楽しみにしているわけもなかった。
そんな重い空気のなかで、私は生徒達に受験までの残り時間が少ないことを煽りながら、淡々と授業を進めるのであった。


ルリナがその塾の生徒達と根本的に違うのは、私との勉強の時間を本当に楽しそうにしているところである。
まるで一緒にクイズでもしているかのように、私との問答にも「よしゃ!」とか、「うわ、やられた!」とか、軽く喜怒哀楽を見せてきたりする。
そんな飾らない素のリアクションに、おもわず私まで吹き出してしまったりするのである。

毎週、私が出す一週間分の宿題も、ルリナはまったくズルをすることもなく、しっかり全部やってくる。
私がそのことを褒めてやると、ルリナは満面の笑みでとても嬉しそうにしてくれる。
ルリナほどのいい子を私は今まで見たことがなかったかもしれない…と思うほどである。


ランチには具沢山の塩焼きそばを作ってやった。
これもルリナは素直に喜んでくれた。

「いつもはどんな食事してるの?」
私が尋ねると、ルリナはちょっとだけ躊躇してから、本当のことを教えてくれた。

じつは、日頃はほとんどスーパーのお惣菜やお弁当を自分で電子レンジでチンして食べている感じなのだそうだ。
母親のマナミは幾つかの仕事を掛け持ちしていて昼夜を問わず働いているので、家にいることが少ないらしい。
なので、なかなか顔を合わせることもなく、食事は別々に食べる習慣になっているとのこと。
でも、そんな暮らしにルリナ自身は不満はないという。

最近の家庭って、そういうものなんだろうか。
私が子供の頃は、夕食だけは家族4人で揃って食べていた記憶がある。
父親が亭主関白で古風な人間だったからかもしれないけど、夕食は必ず家族揃って食べるものだという意識があった。

それに健康面から考えても、ルリナはちょうど育ち盛りなのだから、市販のお弁当や総菜だけでは栄養バランスが心配だ。
・・・と、そういうことも、他人の私が勝手に首を突っ込むべきことではないのだろうか。
いまいち私には世間の常識がよく分からない。


午後は少しだけ残りの勉強をして終了にしたのだけど、今日もまた当然のようにルリナは帰ろうとせず、そのまま外が暗くなるまで一緒にすごした。

こんなおじさんといつも長々と一緒にすごしていてルリナは本当に楽しいのだろうか…という疑問が私には拭えないのだが、ルリナにとってはそれが一週間の中での一番の楽しみなのだそうだ。
おそらくルリナにとって私は、世界で唯一の話し相手なのだろう。

ルリナが楽しいと思ってくれているのであれば、私もルリナのためにどれだけ時間を使っても惜しくないと思う。

他人から見たら取るに足らないようなこんな普通の時間も、当人達にとってはかけがえのない貴重な時間だったりするのだ。