
希望はどこから見えるのか。
昨年は、月三回のペースで投稿した。
noteを始めた半年ぐらいはほぼ毎日投稿し、
少しずつペースをゆるめ、昨年のペースに落ち着いた。
その月三回は、1日/11日/21日の日に定期的に投稿した。
ある程度文書をためて、練って、投稿した。
今年の投稿ペースは、言葉が内側からあふれ出てきた時にすることに。
言葉があらわれなかったら、無理して言葉を絞り出すことをやめることに。
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今年最初に手にした本を、どれにするのか年末かなり悩んだ。
昨年末のギリギリにたまらず買った何冊かの本にするか、それとも、
昨年から過去に読んだ本で気になる本にするか。
年末最後の本『<責任>の生成』の前著にあたる
『中動態の世界』を読み直そうと新年を迎える前に決めた。
理由は、『<責任>の生成』の最後に書かれていたが、
中動態の姿勢(態度)こそ、
これからの新しいマネジメントの核になると思っているので。
このことについては最新版の研究文章にも書いていて、
また本が出る前に<責任>について気になり、追記していた。
しかし、突然気分が変わり(天の邪鬼の性格ゆえ)、
たまらず買った一冊に変更した。
その本は、『シモーヌ・ヴェイユの詩学』。
年末の『幸せなひと時と、暮らし続けたい。』でも少し触れた、
シモーヌ・ヴェイユの本が理由もなく読みたくなった。
冒頭の港千尋さんの本の紹介文を読んで、言葉があふれ出てきた。
< 発光する希望の結晶体 >
シモーヌ・ヴェイユは二十世紀が生みだした思想の奇跡である。暗い時代の底へ降りたひとりの女性が、その手でつかみだした稀有の言葉の数々はいまもわたしたちを刺激してやむところがない。
この文章は、年末に読んだヴェイユの二冊の本から感じたことを
嬉しくなりくらい見事に言葉にしている。
しかし同時に、言葉にできなかった言葉が目の前に顕れたから、
心の底にあった疑問も現れた。
“暗い底へ降りた”から、希望をみた(みえた)のか。
希望をみる(みえる)ためには、“暗い底へ降りない”とダメなのか。
私がこの数年好きになった作家は、
この紹介文にある暗い底へ降りたった経験のある人が多い。
共通して文章が美しく強く、ときには弱く優しく人に寄り添い、
ときには何とも言えない影が見え隠れている。
だから、港さんの文章は心の底で鳴り響いた。
ただし、“暗い底に降りない”と希望をみることができないのであれば、
それは実に悲しい。
暗い底から、上がれないままの人もいる。
去年の底から今年になっても、上がれない人は多くいる。
感性豊かな人ほど、上がれず心苦しんでいる。
ヴェイユも私の好きな作家も、
暗い底から上がれたごくわずかな人のように思う。
冬の夜空ほど、希望をみたくなる。
前の投稿の写真のように、私も元旦の月光から希望を感じた。
ただ暗い底に行かなくても、
誰もが希望をみることができる世界になってほしい。
それが、私の想いであり、希望だ。
この想いに似た近いことは、何度か書いてはいる。
ふと、私が頭の中にあった新しいマネジメントの概念を言葉で映したのも、
一瞬暗い底(死を意識)に降りたった時であったことを思い出した。
暗い底から上がれたのは、死の意識を生の意識に強引に反転させたから。
だから、底に降りたった苦しみがよくわかる。
できれば底に降りなくても、苦しむことなく、希望をみてほしい。
最後に、『シモーヌ・ヴェイユの詩学』の作者のまえがきを紹介したい。
それはこのまえがきに、希望を強く感じたから。
本書は、「見える世界」が極度に重んじられる現代にあって、「見えない世界」が根をもってはじめて「見える世界」が豊かに花開くことを提示しようとしている。
本書は、「感性による社会科学の構築」という新たな地平を開こうとするものである。
数頁のまえがきだけで、気になる言葉が散りばめられていて、
ワクワク感で満たされた幸せを感じながら、本文を読み始めている。
私にとって、これほど贅沢な時間はない。