見ず知らずの人に、身を預けられますか
この文章は、約5 年前の2014 年6 月に、以前使っていたブログに投稿した内容。改めてnote 用に文章や言葉をリニューアルにしてみることに。
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今日(2014年6月某日)、駅の無人の改札口で、ひとりの女性が出られずに困っていた。目の不自由な方(おばあさん)で、改札口とは思わずに前に進もうとされて立ち往生されていた。私は傍に行き尋ねた、「改札口なので、切符を通しましょうか」と。
おばあさんの話では、別の改札口と間違われていた様子。いろいろ聞くと、この数年の駅が変わったことを知らなかったようだった。
切符を通して、エレベーターに一緒に乗り、地上に上がった。どこに行くのか尋ねると、バスに乗るということだったので、バス停まで一緒に歩いた。今いる場所をその都度伝えながら、バス停に辿り着いた。
おばあさんに、バスの番号や降車停留所を尋ねても、はっきり覚えていない。たまに出てくる微かな番号と向かう地名から、ここだろうと思う停留所の一つまで一緒に行った。
私は急いでいたこともあり、バスを待っていた学生におばあさんをお願いして立ち去った。しかし、別れてから、頭からおばあさんのことが離れない。予定をズラしてでも最低でもバスに乗られるまで一緒にいればよかったと。
「なぜこのように思ったのか。」
おばあさんは改札口を出てすぐに、何も疑わずに私の腕を掴んだ。目の不自由なおばあさんにとっては当たり前のことかもしれない。しかし、なぜかその手から感じる温もりが嬉しかった。何だろう、忘れていた感覚をふと思い出した感じ。
だから、後悔している。一言相手に電話をいれれば、時間をズラすことができたのに。それに気付き、バス停に戻ろうかどうか悩んだ。私が歩いて向かう方向に、恐らく乗られたバスも向かうので、バスが通りすぎるたびに乗られたかを追いかけた。
情けない話、振り向くだけでバス停に戻ることはしなかった。その時、ふと思った。
「私は見ず知らずの人に、身を預けられるだろうか。」
私には、できない。人見知りも激しく、簡単には人を信用しない。猜疑心が強い訳ではないけれど。
後悔をしながら歩きつつ、掴まれた腕の感覚を思い出して、嬉しくなった。そして思った。
「相手を無条件に信じられる人になりたい。」
あいにく天気は悪かったけれど、心は雲一つない快晴。約束した人との、対話の時間も気のせいか、優しく感じられた。
この文章を綴ってから5年近くなるが、いまだにできていない。最近想うのは、相手を簡単に信じられないから、自分も信じられないのかと。この文章と再び出会えてよかったと思う。