大丈夫…。
大丈夫。
何度、この言葉を聞いただろうか。
大丈夫。
何度、この言葉を言っただろうか。
本当に大丈夫なら、構わない。
しかし多くは、大丈夫でないのに大丈夫、だという。
相手に、心配をかけたくないから。
相手に、心配されたくないから。
相手を、慮って。
大丈夫そうでないから、「大丈夫?」と尋ねる。
多くは、「大丈夫です」と応える。
そういわれると、それ以上立ち入ることは難しい。
大丈夫ではないと薄々気づきながら、相手を思い、そこで立ち止まる。
立ち入ることができない代わりに、
立ち止まったところで、相手に寄り添う。
ときには、立ち止まることなく、踵を返し、背中を向ける。
大丈夫でない人も、相手のその背中をみて、踵を返して歩く。
二人の距離には、何とも言えない間が、ただただ広がっていく。
私は、変わっている。
相手の顔色と声色から、大丈夫でないことは明らか。
明らかだから、立ち入ることのできない領域に、
ズケズケと入り込んだりする。
京都人なのに、相手の領域に入っていく。
寄り添うことは、簡単ではなく、難しい。
あることをきっかけに、軽々しく、言うことはしないようにした。
相手が居てほしいときに、傍に居れないことに気づいたから。
ただ寄り添っている間に、取り返しのつかないことになることがある。
大丈夫でないのに大丈夫だというから、そのままにして、
気づくと、心を病むこともある。
後で後悔したくないから、相手の領域に入りにいく。
ただ、そこに居座ることはない。
苦しみを言ってすっきりしてもらったら、
雲のように、すーっと離れていく。
相手が気づかないままに、そこに存在しなかったように。
「大丈夫?」
「少し、大丈夫でないかも」
「うん、わかった。一緒に何とかするね」
こんな風に素直に言えるように、そんな関係性が、
いろいろなところにあってほしい。
お互いの相手への思いが、かえって自分を苦しめる。
お互いが思っていることは、ただ一つ。
「苦しまないで。」
大丈夫と聞くから、答えるのが難しいのかもしれない。
なんといえば、お互いを悩ませず、苦しめず、
お互いが気持ちを楽になれるのだろうか。
昨日、大好きな若松英輔さんの
『魂にふれる 大震災と、生きている死者 増補新版』を読み終えた。
最後に、次のような文章があった。
苦しいなら苦しいと言えばよい。
悲しいなら悲しいと誰かに語ればよい。
そういうかもしれない。
だが、現実はもう少し複雑だ。
苦しみとは苦しいと言えなくなる状態のことであり、
悲しみとは、容易に言葉にならない悲痛を胸に抱くことにほかならない。
苦しみの底にあるとき人は、すでに言語が捉え得る場所にはいない。
それは沈黙の境域だといってよい。
言葉の奥の実在を、感じ続けたい。
実在を否定せずに。
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