相手に「なぜするのか」と訊くより、自分は「なぜしないのか」と訊いてみる。
よく“相手に”訊く、というよりも問いただしてしまう。
「なぜそんなことをするのか。」
きっと、誰もが訊いたことがあるし、訊かれたことがある。
そう訊かれても、なかなか答えにくいことがある。
理由を訊かれても、何か理由があってしている訳ではないこともある。
答えられないと、首を傾げられたり、イライラされたり、怒られたりする。
訊いた人が考えている答えと違っても怒られる。
「もっと、真剣に考えろ」と。
質問をしているようで、
自分の仮説や推測などを確認していることが実は多い。
私は、寄付や献血をしている。
「なぜするのか」と訊かれても、答えに悩む。
「想いから」と言っても、納得してもらえない。
抽象的な答えではなく、具体的な答えを求められる。
そんな時、いつも思う。
相手に「あなたは、なぜするのか」と訊く前に、
自分に「私は、なぜしないのか」と問いかけてほしい。
最近、いろいろな問題(悪質ドライバーや投稿など)が起こっている。
これらの問題に対して、「なぜそんな過ちを犯すのか」かが議論になる。
私は、思う。
「なぜするのか」からだけでは、解決策はない。
「なぜしないのか」の中にも、解決策はある。
問題行為をしない人にその理由を訊いても、
懲罰や罰則を挙げる人は少ないのではないだろうか。
多くの人は、「倫理的に」「人として」などの内発的な理由を挙げる。
いくらルールの厳罰化などしても、一瞬は抑止力になっても続かない。
言葉は悪いが、抜け道を見つける人がでてくる。
その抜け道を利用する人がさらにでてくる。
本当に必要なのは、人の内面を育むこと。
教育という言葉では決してない。
というか、教えるものでも、教えられるものでもない。
自然と育んでいくもの。
この辺りについては、数学者の岡潔さんは訴えている。
岡潔さんがご存命なら、今の社会に対して何と言われるだろうか。
どうしたら、倫理観や人としての内面を育めるのかを考えた方がいい。
例えば、親の愛情や周りの人をみながら育ってきたのであれば、
そのような場が必要になってくる。
ひょっとしたら、知らないうちに自分の内面がズレているのかもしれない。
結構、ルールを厳しく人ほど、よくみてみるとルールを守っていない。
実は、そのような場を奪ってきたことこそが、
手本となる私たちが知らずに変わってきたことが、
大きな問題なのかもしれない。