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余を愉しむ。
ふと、即席のお味噌汁の表示が目に入った。
「みそと貝を入れてください。」
思わず、「!?」と思い、二度見してしまった。
二度見して、見間違いに気づいた。
貝ではなく、具だった。
具の中に、貝(あさり)が入っているから大きな間違いではない。
貝の“一”が加わると、具になる。
いつものように漢字の語源など調べようかと思ったが、今回は止めた。
調べたら、がっかりする気が何となくしたから。
何でもかんでも、調べて答えを探すことはない。
答えがわからなくても、別にいい。
最近は、曖昧な状態で終わる方が、いいような気がしているから。
昔は、曖昧な状態は大嫌いだったのに、よくも変容できたと思う。
細かいのかもしれないが、
いろいろな些細なことに、昔から気になるようだった。
気になると、そこに意識が向かってしまう。
一度意識が向かうと、もう終わり。
気になってしょうがない。
好奇心となって、調べて答えを探していた。
これは、昔も今も変わらない。
身体は正直、年齢に応じて衰えつつある。
眼は確実に悪くなっている。
老眼にはまだなっていないが。
足腰も弱りつつある。
ちょっとした、つまずきが多くなったが。
面白いのが、衰えた替わりに、
今まで気づかなかったことに目が向かうようになった。
例えば、漢字の読み違いから、言葉に意味に関心が向くようになった。
例えば、つまずきが多くなったから、
つまずかないように足元を見るようになった。
今まで、在ったものに関心そして好奇心が向かうようになった。
この数年、存在論や認識論にすごく興味がある。
井筒俊彦の本を読むたびに、はっとさせられる。
体力的には、いろいろ衰えはある、残念ながら。
ただ、衰えたから、意識や感度がより高くなった。
何かが悪くなったのなら、反対によくなったものは、必ずある。
そこに意識できると、安心できる。
人生はまだまだ長い。
40歳になるまでは、40歳までしか生きられないと思っていたけれど、
今も生きている。
生きられないと思っていたのは、いつか話すが、病気とかではない。
人から恨みを買って、それで・・・だと。
よくある、「口は禍の元」。
言わなくても言いことまで、ずけずけ言ってきたから。
嫌われても恨まれても、しょうがないと思っていた。
誰かがその役割をしないと、秩序が守れないと思っていた。
単なる思い込み、いや、思い上がりに過ぎなかった。
そういえば、40歳を過ぎてからは、ずけずけ言わなくなった。
余生だと思うと、楽になれた。
最近、この“余”という感覚というか感性が、大切な気がしている。
足りていると言うか、余っていると言うかで、
受け取る印象が大きく変わる。
余を大切にするのは、日本独特の文化のように感じる。
こういうことに気づくのも、余裕が生まれたからかもしれない。
本当に、うまいことできている、人生は。