見出し画像

「常夜鍋」かくあるべし!

以前母親に「15万円分のふるさと納税をする。その返礼品は実家に送ってあげるから、好きな返礼品を15万円分選んでほしい」と言ったことがある。返礼品にかけられる金額に規制がなかった、返礼品が豪華だった頃の話だ。
母が「決めた」というので、何にしたのか聞いたら「豚一頭いっとう」だと言う。
ついに実家の裏庭で豚を飼うのかと聞いたらそうではなく、豚一頭分の加工された冷凍肉が届くのだと。
15万円を小分けにして、アレとコレと…と選ぶはずだと思っていた僕は、まさかの15万円全てを豚肉に使ったことに驚き「なぜそれを選んだのか」と聞くと「面白そうだったから」と。
何かを選ぶ時、面白そうな方を選んでしまうという血は争えない。


鹿児島県都城市

その商品を出していたのは、鹿児島県宮崎県※の都城みやこのじょう市だった。さすがは九州。黒豚が有名な土地である。「豚一頭」という商品は一名限定で、ちょっとしたおふざけ枠というか、インパクト重視のものだったのだろう。届いた箱を見て、逆に驚かされたのは母の方だった。
大きな段ボールで4箱。母親自慢の大容量な専用冷凍庫に用意していたスペースはすぐに埋まり、裏に住む祖母に冷凍庫を借り、近所中に配り歩き、東京にいる息子(僕)にも送り、それでも入らなかった分は鍋にし、友人を呼びまくって大量消費したことでようやく使い切ったそうな。
東京の息子に送った大量の豚肉は、急遽集められた歌い手各位の腹に、しゃぶしゃぶとなって収まった。
豚肉のおかげで我が家に強烈な印象をもたらした鹿児島県都城みやこのじょう市だが、こんな機会でもなかったらサラッと読める地名では無かったと思う。(※10/31 訂正しました!すみません!)

歌い手にも振る舞ったしゃぶしゃぶは、具が豚肉とほうれん草だけというシンプルなもので、別名を「常夜鍋じょうやなべ」と言う。たびたび話題にするこの常夜鍋なのだが、古くは北大路魯山人や池波正太郎の随筆にも登場するし、向田邦子さんのエッセイでは彼女のお気に入りのレシピが細かく記されている。文字数が増えるのでここには記さないが、気になる方は調べてみてほしい。

この常夜鍋、過去に一番多くの回数作った鍋と言って差し支えない。
風邪を引きそうな時や、だるくて動きたくない時など、決まってこの鍋を作るという習慣になっている。簡単においしく、たっぷりと栄養を取れる最高の鍋なのだ。
時には台所に高椅子を持っていき、コンロの上に鍋ではなく気軽なフライパンを置いて、台所で食事を済ませてしまうことだってある。もともとは実家で、匂いの強いジンギスカンをするときの手法を真似したものだ。手抜きであることは確かなのだが、立派な名前がついているので後ろめたさを感じにくいのも良い。

鍋にお湯を沸かし、日本酒を加える。配合は自由だ。なんなら入れなくても良い。そして、ほうれん草と豚肉でしゃぶしゃぶをすれば、それだけで常夜鍋と言える。剥いて潰したニンニクを入れたり、母は胡椒の粒を入れたりもするが、茹で汁の工夫はそれぞれ楽しめばよいし、何も無ければ湯とほうれん草と肉だけでも全く構わない。買ってきたしゃぶしゃぶ肉のパックのラップを剥がし、そのまま切ったほうれん草を肉の上に乗せて盛り皿の代わりにするくらいの気軽な気持ちでよい。SDGsである。

この手の話をすると「私は豆腐を入れてみました」「きのこを入れても美味しいですよね」などのコメントをいただくのだが、どんな具を入れてもそれは自由だし、好きにすればよろしい。ただし申し訳ないが、それを常夜鍋と称するのは控えていただきたい。具として「ほうれん草」と「豚肉」以外のものを入れるのは、景色が寂しかったからと枯山水に薔薇を植えるような行為であり、その時点でそれは煩悩鍋なのだ。限られたものだけで構成されていることに美徳を感じることのできる稀有な民族であるからこそ、この精神についてはぜひともご理解いただきたい。

【おことわり】過激派チックなのはネタですよ笑

……とまぁ、具に関してはただならぬ思い入れのある常夜鍋ではあるが、その分、つけダレにこだわることができるのがこの鍋の良いところである。我が家ではミツカンのポン酢と、ごましゃぶのタレの2種類を用いるのが常なのだが、向田邦子さん風に醤油にレモン汁を加えて即席のポン酢を作ってみるのも一興だろう。余っている柑橘類を絞ってみるのもおしゃれだ。
冷蔵庫から出したての冷たいゴマダレとポン酢に、みょうが、小ねぎ、千切りにしたシソなどの薬味を置き、あつあつの肉を巻いていただく食べ方を、特に好みとしている。十分な栄養摂取をも目論んでいるため、薬味類は大量に用意されたい。

知人の陶芸作家に頼み、常夜鍋専用のつけダレ皿を焼いてもらったことがある。ゴマダレとポン酢が最後まで下にたまるように逆三角形にした器を、二つつなげて焼いてもらったものだ。中央のつなぎ目でつけダレを適度に落とすこともできる。
しかし、ある友人は「ポン酢とゴマダレを、食べ終わりの直前にブレンドし、第3のつけだれとする」のだそうで、これを真似することも増えてきた。
また、食べ終わりの際「ポン酢にしゃぶしゃぶの茹で汁を適量加えてスープにして飲む」というのも最近の定番となりつつあるのだが、そうなるとこの器では都合が悪く、スープを飲もうとするとゴマダレも一緒にこぼれてしまう不便さから、登場の頻度は減ってしまった。

もし近所に、昔ながらの肉屋が現存しているのなら、是非そこに行って「豚肉をできるだけ薄く」と注文してほしい。
東京で一人暮らしを始めた時、近所にまさにそういう店があったのだが、いつのまにかおしゃれなブティックに変貌してしまった。
ワンルームのせまいキッチンスペースに高椅子を置いて、常夜鍋をしていた時代のことをなつかしく思いだす。
駆け出し時代から今に至るまで、ずっと作り続けている最高の献立なのである。

作家さんに作ってもらった、常夜鍋専用のうつわ

いいなと思ったら応援しよう!

事務員G
サポートをいただけましたら なるべく自分の言葉でメッセージをお返ししようと思います。 よろしくお願いいたします。うれしいです!