ビジネスホテルのシャワー評価を5年以上記録し続けていった結果
「ミシュラン三つ星」という言葉は、素晴らしい飲食店を示す指標として誰もが知るところだが「三つ星」が与えられる基準は「それを味わうために旅行する価値がある」かどうか、だそうだ。
つまり、素晴らしいレストランの料理を食べるために旅行を計画する人が世の中には一定数いるようなのだが、残念ながら自分はそのたぐいではないらしい。
旅行をする理由は人によってさまざまだろうが、僕の場合は「いつか会う誰かの出身地にあらかじめ行っておくことで、話が盛り上がるようにしておきたいから」というのが大きい。
これは、バーテンダーがさまざまな種類のカクテルレシピを暗記しているのに近い。有名なカクテルなら名前を言うだけで軽くうなずき、たちまちそれを作り上げてくれるはずだ。客はその姿をみて安心するはずだろうし、その安心感はきっと味にも直結している。
自分にとって旅行とは、いつもと違う環境に身を置くことで自分自身がその状況を楽しむのはもちろんのこと、話題作りの一環として多くの土地での経験値を積んでおくことなのだ。はっきり言うと、いつか会う誰かを安心させるために、その土地を知っておくという作業なのである。
神社仏閣や城に特別な思い入れがあるわけではないが、経験のために登っておく。似たようなものを食べたことはあるが、その土地自慢のグルメは食べておく。たまに道中で消極的な気持ちになることもあるが「行ってるか行ってないかじゃ大違い」「食べてるか食べてないかなら食べておいたほうがいい」などという思いを脳内に巡らせつつ、行動している。人生をフルに使ったスタンプラリーのようなものだ。
そんな「いつか話題になりそうなことを潰しておく」のが旅行の動機の主である自分なので、旅行の質という点で言えば、あまりこだわりは無い。乗り心地の悪い移動手段しかなくても構わないし、ラグジュアリーなホテルを選ぶこともしない。休息時のプライベート空間だけは死守したいというのが最大の望みなのでカプセルホテルこそ選ばないが、宿泊は普通のビジネスホテルであれば何の文句もない。
ただし。
そんな自分にも、やはり一点だけ、特別なこだわりを持っていることがある。それは「シャワーの温度と水圧」だ。
自分にとってホテルのシャワーの良し悪しとは、その旅行そのものの全体的な満足感さえも左右させかねない、重要な評価項目の一つなのである。
話すと長いのでかいつまんで説明するが、コロナが蔓延していた頃、僕には帰る家が無かった。引っ越そうと思っていたタイミングで、家財道具を実家の物置に預け長期の旅行に出たところ、運悪くコロナが始まってしまったのだ。仕事のために東京に戻っても、帰る家はない。ラジオや音楽関係の作業ができるようにスタジオ代わりの小さいマンションこそ借りたが、寝るためにはその都度、その日の都合に合致した立地のビジネスホテルを借り、次の予定が数日間ない時はそのホテルに泊まり続ける……という生活を、最終的に3年以上していたことになる。
その時からすでに重要視していたのが、シャワーの質だったのだ。もしシャワーの質が悪ければ、次にまたその近辺で泊まる際は別のホテルを選んだ。
いつしか、各ホテルのシャワーへの評価を逐一スマホにメモしはじめ、最終的には今現在も更新し続けている、膨大な数の「ビジネスホテルのシャワーデータベース」が構築されることになったのだが、その初期の一部をご覧いただこうと思う。
ホテル名と部屋番号、「勢」と「熱」はそれぞれ「シャワーの水圧」と「最高到達温度」を5点満点で、寸評も含め2行に収まるように評価している。4.0が自分の中の満足値とお捉えいただきたい。
左側の画像の上部に同ホテルの別部屋の評価がまとまっていることがおわかりいただけるだろうか。これは会社の近くにあったホテルで利用頻度がひときわ高かった。泊まり続けたことで、同じホテルでも部屋によって水圧等が違うことに気づき、それを片隅にメモし始めたのが、この膨大なデータベースが生まれるきっかけだったのだ。
画像上部には入り切っていないが、そのホテルの利用頻度が高すぎたおかげで、8階のシャワーレベルが他の階に比べて高いことを突き止め、「何故か中途半端な8階を指定してくる◯◯さん」と呼ばれることもいとわずに、8階ばかりを指定し続けた。最終的に、8階の中でも特に808号室が最高のスペックであることが判明したので、その後は808号室を指定し続けるに至り、このホテルのデータベースは以降更新されなくなった。調査完了まで1年半近くを要したと記憶している。
浴びている最中にシャワーの温度が変わってしまうことを「ムラ」と表現したり、シャワーヘッド表面上の最小単位である”穴1つから出る水”のことを「筋」と言ったり、次第に、評価を2行で収めるための自分的専門用語が増えていくことになった。
また、最近多くなったミラバスタイプ、つまりミストタイプのシャワーに関しては、湯のヒット感を重視する自分にとっていささか物足りないので寸評に必ず書き添え、次回から利用を控えた。
「混合系」とは、お湯の量と水の量の配合を自分自身で調整する必要のあるタイプのこと。「職人系」というのは「混合系」の派生で、「混合系」タイプのうち少し触っただけでも大幅に温度が変わってしまう危険を持ち合わせた、混ぜ手に対して0.1mm単位の微細な調整を課すタイプを表している。
現在に近づくにつれ次第にコロナも落ち着き、地方へ赴くことも多くなった。ホテルのシャワーを評価することはそのまま習慣となり、今に続いている。大阪や京都など、頻繁に行く地方の場合はこのメモを見て、ホテル選びの参考にするようになったのだ。
いまではこのデータベースを見るだけで、その時の記憶がシャワーヘッドと共に思い出せるようになっている。
例えばこれ。この日はとても暑かった。昼食を食べにホテルから出て歩いていたところ、スマホに安倍元首相銃撃のニュース速報が届いた。ざわざわとした気持ちで店内のテレビを見つつラーメンを食べ、帰りにコンビニに寄ってサクレを2つ買い、溶けないように急ぎ足でホテルに戻る。
まとわりつく汗を落とすために部屋に戻るなりシャワーを浴びたが、浴び終わったらサクレを食べながらニュースを見ようと思っていたことまで鮮明に思い出せるのだ。
さて。この話を知人にするとよく聞かれるのが「今まで泊まったホテルで最低値と最高値を出したのはどこか」という質問なので、これを機にお答えし、締めさせていただこうと思う。
最低値は、名前こそ出さないが、札幌のとあるホテルだった。冬場の人気の期間だったので他のホテルがなかなか取れず、7泊8日の連泊で申し込んだのだが、申し込みをした後にとあるサイトの口コミに書かれたシャワーについての言及を見てしまった。1週間も残念な思いをするくらいならと、チェックインの際に「申し訳ないが料金を支払う前に、部屋に入らせてもらいシャワーをチェックさせてほしい」と頼み、部屋に入りシャワーを出したところ、勢いがなく、シャワーヘッドから放たれたお湯はたちまち一本の太い筋になりボタボタ落ちるのみだった。
何も言わずフロントに戻り「正規料金をお支払するので全部キャンセルして下さい」と頼み、少し良いホテルの予約を取り直して自分の機嫌を納めた。
そして、データベース上の最高値は神戸のベイシェラトンホテルだった。
ビジネスホテルではないが。
ここのはすごかった。勢いが強すぎて、ヘッドを持つのにも力が必要だったのを覚えている。顔に当てると、目がえぐられるのではと思うくらいの強さで、驚いて顔から離したところシャワーブースの扉に当たり、水圧でその重い扉が開いてしまった程。跳ね馬との呼び声高きフェラーリを実際に運転したらこんな感じなのかもと思わせてくれるような、ファビュラスなシャワーだった。
もう一度それを体験するために旅行する価値は、十分にある。
「それを味わうために旅行する価値がある」というのがミシュラン三つ星の条件なのならば、このシャワーにこそ僕は三つ星を付けたい。