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墓と駅と映画 ー 映画『墓泥棒と失われた女神』について
「死んだ人から盗むなんてよくない。人の目を喜ばせるための物じゃない、魂のための物よ。ベニアミーナは知っているの?」
まさに墓が掘られているときに、イタリアはアーサーにこのような言葉を投げかけた。考え過ぎかもしれないが、僕はこのセリフが映画というものにも当てはまるのではないかと思った。映画は人の目を喜ばせるための物ではなく、魂のための物なのだろうか。
映画とは墓とも言えないだろうか。フィルムには過ぎ去った過去が埋葬されている。映画はもちろん幻想だが、フィルムに写っているのは、それはかつてあった現実である。映画は幻想であり現実である。ただし、それは実際の墓とは違って誰にもなにも盗むことはできないだろう。どちらかといえば、イタリア(たち)が占拠した廃駅に近いかもしれない。
「駅を占拠したの。誰のものでもないし…みんなのもの。ここは一時的な居場所よ。人生も一時的だしね」
映画も誰のものでもない(もちろん権利などはあるが)し、映画はエンドロールが流れ去って画面が暗くまでしか留まることができない。あるいは、映画館は駅なのかもれしれない。人々が一時的に集って、映画という過去を共有する。こじつけが過ぎるだろうか。このこと自体僕の幻想であるかもしれない。
懲りずにもう一つこじつけをしてみよう。墓が暴かれた瞬間に、墓の壁画が色褪せていくシーンがあった。それは映画においては、あらゆる可能性が私の目によって有限になるということではないだろうか。だからこそ、映画は可能な限り鮮やかに観ようとすることが求められるのかもしれない。私はこの映画を、どれだけ鮮やかに観ることができただろうか。
もう少しこの映画について語りたい。
アーサーは運命に翻弄されているようであったり、受動さを感じるが、意外と能動的であるのかもしれないと思った。
確かにイタリアと比べると、イタリアは活発で言葉数も多いのに、アーサーはそれとは逆に思える。あるいは、アーサーが自分から話しかけるシーンは少なかったように思える。ただ、終盤のシーンを見ると、アーサーって意外と能動的なのかも?と思う。イタリアとのキッチンでのキスシーン。アーサーは自らイタリアに近づいていく。カメラはアーサーを追い、イタリアがフレームの右側から現れる。このときイタリアは動いていない。なんだか僕はこのシーンで少し感動した。ただ、このときイタリアがどんな顔や目線で待っていたか、もっとちゃんと観ておけば良かったと思う。
そして最後のシーンにおいてもそうだった。地上から伸びる赤い糸は切れてしまったが、アーサーは自ら女性のもとに辿り着く。
映画における反復と差異も良かった。イタリアとアーサーの最初の出会いでは、イタリアは椅子を壊していて、逆に再会するときには椅子を組み立てていた。また、最初の出会いでは足元からイタリアの顔にカメラが移動して、ああこの人は重要な人になるんだろうと思わせた。再会のときはイタリアは屈んでいて、近づいてきたアーサーを横に向いて目にしていた。このときは、会話はそれとしてあるが、二人の今までの時間や気持ちや親密さの全てがあるように感じたし、また何かがはじまるようにも感じた。もちろんそのはじまりとは、別離だったけれども。
最後に、パンフレットのDIRECTOR’S COMMENTに「ある墓泥棒が言うように死者が「生」を与えるのだ」と書いてあった。これが実際映画に出てきたセリフなのかは忘れてしまったが、やはり映画も過去から私たちに「生」を与えるのかもしれない。