小説『未定』#02
演奏が終わりセッティングを片していると、彼女と廊下をすれ違った。
「ドラム、興味ない?」
心で呟いたはずだった。
「…私、リズム感覚ないんですけど、それでも大丈夫ですか?」
僕の脳内とは裏腹に声に出てしまっていることに気付いたのは、彼女が返答したことによってだった。
五秒間の間が空いてから急いで言葉を紡ぐ。
「だ、大丈夫だよ。俺なんかも最初は手と足が一緒に動いてこんなの人間が扱える代物じゃないって思ったから。」
すると、彼女はお辞儀をした。
幾分かの沈黙。時が止まったかと思ったが、アニメーションなどでよくある、空間のガラスを割られたように、彼女の次の一言で時間はまた動き出した。
「…くっく。人間の代物じゃない、だって。」
玲はお辞儀をしたわけではなかった。お腹を抱えながら、笑いを堪えていたのだ。腕の先の指が、お腹の肉を摘んでいるのがうかがえた。つねって我慢しなければならないほど面白い台詞だとも思えないが。
「いいですよ。」
聞き間違いかと思い、自然と視線が上がった。玲はニコッと微笑んでいた。硝子から差し込んだ光が、彼女の笑顔を照らしていた。
「やります、私。ドラムだけじゃなく、パーカッション。」
僕はしばらく彼女の顔を見つめていた。最近テレビで見た芸能人に似ているような気がしたが、肝心の人物を思い出せずにいた。
「嫌なんですか?自分で誘ったくせに。」
思考の堂々巡りをしている中、彼女の言葉で妄想から覚めた。ベイカーベイカーパラドックス状態に浸っている場合ではない。
「いや、ごめん。嫌だから黙っていたわけじゃない。」
「そうですか、良かったです。」
「入部届って、もう配られた?配られていたら、ぜひ音楽室に提出しにおいで。俺じゃなくてもいいからさ。」
「はい。分かりました。明後日なら時間があると思うので、まだその気だったら提出しに行きます。」
「おーい、玲ちゃん?そろそろ行かない?」
後方から声がした。振り返ると、演奏中に一緒に見ていた女の子が手を振っていた。
「ごめんね、長々と話し込んじゃって。」
「いえ。入部することになったら、また音楽室に行きますね。」
「分かった。あ、他のパートに浮気しないでよ?」
「ふふっ、考えておきます。それでは。」
玲はぺこっとお辞儀をすると、友達のところまで走っていった。
見かけでの雰囲気だが、礼儀正しくおとなしそうな玲さんとは違いやんちゃなイメージがした。
「あの子も楽器に興味があるのかな?」
と、答えが分かるわけでもない疑問を頭に残していると。
ピンポンパンポーン。
迷子のお知らのアナウンスが始まるのではないかと思う、聞き覚えがある音がした。この学校では、下校時刻と先生、生徒の呼び出しの時にこの音が鳴る。
白い柱にかかっている時計を見ると、夜の六時半だった。
クラブ勧誘期間は、生徒も先生も六時半に帰らせられる。
「下校時間になりました。生徒は、速やかに下校してください。」
「ふう、俺も帰るか。」
と音楽室に向かおうと踵を返した瞬間。
「やべ、まだ片付けの途中だった!」
急いで音楽室のパーカッションのメンバーがいる場所に戻ると
「どこほっつき歩いてたの!!」
とパートリーダーに怒られた。パーカッションの楽器は全て片付けてあったが、他のメンバーが帰る中、俺だけリーダーにこっぴどく叱られ、反省文をA4用紙三枚みっちりに書くように言われ、反抗の都度を少しでも示そうものなら
「うるさい!」
と一蹴された。警備員のおじさんが校内の電気を消しに来た時でさえも彼女の怒号が止むことはなかった。
暗く視界が閉ざされた学校から出て、お詫びに近所の中華屋の美味しい麻婆豆腐を奢ってもまだ小言を言われていた。
今までどれだけ俺に対する鬱憤が溜まっていたのだろうか。傷つけたことは一度もないと思うのだが。
彼女の怒りは、麻婆豆腐に任せても収まらなかったが、母親がたまたまデパートの土産で買ってきた、八個入りで三千円ほどのチョコレートをあげたらすぐに収まった。
ははーん。どうも甘党だな、こいつ。
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